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「す、すごいです……。等級二への昇級、おめでとうございます!」
巨大な建物の片隅で、少年は手続きを行う。受付用の窓口はいくつもあるのだが、この瞬間の利用者は一人だけだ。
正面の女性はやや興奮気味だが、無理もない。それほどに高難易度の試験を、十二歳の子供が合格したのだから当然だ。
「ありがとうございます。でも、僕は手伝ってもらっただけなので……」
「いえいえ。それも含めて実力ですから。傭兵ならお仲間も含めてなんぼです。そういう世界です!」
「は、はぁ……」
傭兵組合の制服を着ており、ましてや受付の向こう側にいるのだから、この女性は紛れもなく職員だ。桃色のおさげを揺らしながらの熱弁が、少年を一歩後退させる。
ここはイダンリネア王国。ウイルとエルディアはルルーブ港で二泊し、その後、寄り道せず帰国を果たした。
つい先ほど到着し、疲れた体に鞭打って試験の手続きを進めている。
提出物は三点。
ルルーブクラブの鋏。
スケルトンの仙骨。
十万イール。
エルディアのおかげで無事揃ったことから、ウイルはこの瞬間、昇級を果たした。
「では! ギルドカードを書き換えますので少々お待ちくださ~い」
「はい」
「ところで! 昇級試験を受けたということは何か急ぐ理由があったのかと思います。手伝ってくれたお仲間と等級を揃えたかったのですか?」
手を動かしながらもそれ以上に口を動かす。職員の矢継ぎ早な問いかけに、ウイルは困惑気味だ。
「えっと……、ミファレト荒野に行ってみたくて……」
この返答は正しくない。正確には、その南西に位置する迷いの森で魔女と会うことが目的だ。
「なるほど! 等級一ですと、蛇の大穴は通行止めですしね。あ! その手前、ケイロー渓谷は今危ないことになってますので、お気をつけて!」
職員の言葉をフンフンと聞いていたウイルだが、予想外の情報が提示されたため、思わず眉をひそめる。
「え? ケイロー……? 何かあるんですか?」
ケイロー渓谷。イダンリネア王国と迷いの森の中間あたりに広がる山脈地帯だ。ルルーブ森林のさらに西側に位置し、次の長旅では避けては通れない。
「各地からゴブリンが集結しているようです。ルルーブ港のギルドにて討伐依頼が出されていますが、苦戦中のようでして。ゴブリン退治は面倒な上に報酬もあまり高くないですしね……。世知辛いです!」
(な、なんと……)
明るい女性とは対照的に、少年は頭を抱える。ウイル自身はゴブリンを見たことはないが、その危険性は教科書に記載されていた。仮に読んでなかろうと学校の授業で普通に習う。
従来、魔物とは動物のように野性的かつ盲目的に襲い掛かってくる存在だ。それはそれで厄介だが、対処の仕方さえわかっていれば、そして実力が伴っているのならば、なんとでもなる。
一方、ゴブリン族の戦い方は人間に近い。知能を持ち、自作した武器だけでなく、人間から奪ったものさえ利用する。
一対一で勝てないのなら複数で攻め、危険とわかれば撤退も辞さない。
こういった背景から、傭兵の死因はゴブリンに起因することが多い。
草原ウサギで腕を磨き、ウッドシープやウッドファンガーへ順当にステップアップし、その後も成長を続けられたとしても、ゴブリンに殺される傭兵は後を絶たない。
「はい、書き換え完了です! ウイル・ヴィエンさん、ギルドカードをどうぞ!」
「ありがとうございます……」
この状況、素直に喜べるはずもない。等級の数字は上がったが、引き換えに新たな困難と直面してしまった。もちろん、知らずに向かった時の方が厄介だったが、それでも今はもやもやを募らせる。
(エルディアさんがいるから大丈夫だろうけど……。ちょっと怖いな、相談してみよう)
ウイルは窓口を後にする。
左右の掲示板には大量の依頼が張り出されており、屈強な傭兵達が肩を並べて物色中だ。
そのエリアを抜ければ、目の前には腹を満たすためのひらけたスペース、食堂が現れる。多数の椅子とテーブルが綺麗に並べてあり、彼女の居場所なら探すまでもない。
(美味しそうにオムライス食べてる。僕も何か食べないとなぁ……)
顎下付近で内側にカーブを描く、茶色の髪。
蠱惑的な瞳と厚い唇。
黒色の薄着とその上にまとった胸部アーマー。
灰色のロングスカート。
そして、頬を膨らませなら貪るその食欲。
エルディアだ。フロアの中央付近で一人黙々と遅めの昼食を楽しんでいる。
「終わりましたー」
「もぐもぐー?」
「おかげさまで昇級出来ました。本題の前に僕も注文しよっと……。何食べようかな」
現在の時刻は午後二時過ぎ。中途半端な食事になってしまったが、旅をしている以上、生活サイクルは不規則となる。
「おめでとー。本題というと、次の旅?」
「それもあるんですが……、窓口で教えてもらったんです。どうやらケイロー渓谷が大変なことになってるみたいで。なんでも、ゴブリンが大勢いるとかなんとか……」
「それなら港で私も聞いたなー。まぁ、なんとかなるっしょー、ゴブリン程度なら。もぐもぐ」
一人心配するウイルとは対照的に、エルディアはオムライスに釘付けだ。好物というわけではなく、空腹が彼女をそうさせる。
(頼もしいというか、楽観的過ぎて心配になるというか……。あ、今日はあれにしよう)
遠方の壁を眺め、少年はそこに書かれたいくつものメニューの中から昼食を選択する。皿を片づける職員にそれを告げれば、後は大人しく待つだけだ。
「ゴブリンかぁ。片っ端から全滅させてもいいんだけど、それだと時間かかっちゃうからなぁ。急いだ方がいいんだよね?」
「ぜ、全滅……? あ、えと、そこはお任せします」
「ほいほい。あっち行ってから考えよー。もぐもぐ」
ウイルは理解出来ていない。
エルディアの余裕の根拠を。
エルディアの本当の実力を。
ゴブリン族は確かに強敵だ。武器を扱うばかりか、連携する魔物が弱いはずもない。
それでも彼女には関係ない。
才能と経験に裏付けられた、傭兵としてのポテンシャル。エルディアのそれは紛れもなく本物であり、後にウイルはケイロー渓谷で思い知らされる。
(やっと……、やっとだ。迷いの森……、魔女……、ハクア……)
想定外の遠征を一つ挟んでしまったが、本願を果たすための準備は整った。
母の病を治すため、薬を入手。そのためには迷いの森まで足を運び、ハクアという名の魔女に会う必要がある。
白紙大典と名医ライノル・ドクトゥルがそう言っていたのだから、疑いようのない手がかりだ。
目的地は遠い。その距離ゆえに、旅路にかかる期間は昇進試験の倍以上だ。その上、魔物は今まで以上に手ごわく、ゴブリンとの戦闘も避けては通れない。
今回もエルディアが同行してくれるため、大丈夫だろうと思う反面、絶対などないとルルーブ森林で痛感したのだから、気を引き締める必要がある。
「ケイロー渓谷越えて、ミファレト荒野……と。久しぶりだわ。あそこって落とし穴というか裂け目があるくらいで見どころないし、魔物も少ないしで行く理由がなかなかないのよねー。迷いの森に至っては見たこともないなー」
エルディアの発言は傭兵としては至極普通だ。
ミファレト荒野。イダンリネア王国から遠く離れた無人の大地。
傭兵が旅をする理由はいくつかあるが、その一つが依頼のためであり、魔物討伐や素材入手のため、雨風に耐えながらそこを目指す。
魔物の少ない僻地や、得られるものが何もない土地は必然的にそこを訪れる理由も少なく、ゆえに自由奔放な傭兵であっても目的地は限られる。
探検や冒険という名目で好き勝手に旅をするのは個人の自由だ。その先々で新たな発見があるかもしれない。
だが、そういった行為は心を満たすことは出来ても、出費がかさむ。
自由を求め、この職業を選んだものの、好きに生きることは出来ない。傭兵でさえ、社会の歯車に組み込まれている。
「大地の裂け目、ミファレト亀裂……。実は一度でいいから見てみたかったんです。後、シイダン耕地のシイダン川、その上流にある甌穴群も……。不謹慎ですけど、ちょっとだけワクワクしてます」
ウイルとてまだまだ子供だ。まだ見ぬ土地に思いを馳せてしまう。
不謹慎という単語を用いた理由は、旅の目的が病の治療であり、遊びでないと自覚しているためだ。エルディアには伝わらなかったが、事情を話していないのだから当然と言える。
「おうけつ……ぐん? もぐもぐ」
「はい。川底に出来る不思議な現象です。たいしたもんじゃないんですけど、見てみたいなぁ、と」
「おっけー。それも見に行こう。私も知らないし。上流ってことなら、遠回りにもならないしねー」
「わぁ、ありがとうございます」
エルディアの許可が得られた。観光と呼ぶにはチープかもしれないが、楽しみが増えた以上、ウイルは素直に喜ぶ。
旅の計画も兼ねた談笑を続けていると、待ちわびた料理が運ばれてきた。少年は嬉々としてそれを受け取り、先ずは目で楽しむ。
「なんだっけ、それ?」
「デフィアーク風タコスです。お肉とソーセージとちょっとだけ野菜が入ってて、まぁ、野暮ったい料理です。この前、傭兵さんが食べてるの見て、美味しそうだなぁ、と」
デフィアーク風タコス。薄く伸ばした生地で食材を包んだだけのシンプルな料理だが、それゆえに味と触感が素直なため、多くの人間に好かれている。
「肉尽くしなんだ。持ち運びにも向いてそうだし、いいねー。もぐもぐ」
「はい。実家では食べられない料理です。あ~、でも、お願いすれば作ってもらえたのかな?」
食べ終えそうな彼女を追いかけるように、ウイルも料理にかじりつく。先ずはスパイスの刺激な匂いが到達し、次いでぎゅうぎゅうな肉達が口の中で暴れ出す。
(おぉ、これは……、うん、旨いに決まってる。あぁ、余裕でもう一個いけるなぁ。でも、夕食のことを考えると我慢我慢)
遅い昼食ゆえ、次の食事までのインターバルは短い。このタイミングで満腹になり過ぎると、支障が出てしまいかねない。
「今日は予定通りゆっくりして、明日の朝、出発ってことでいいんですよね?」
「うんー。そろそろ父さんに顔見せておかないと、後でうるさそうだし……」
タコスを半分食べた頃合いで、ウイルはこれからのスケジュールを確認する。
本番の旅を前に気持ちは昂ってしまうが、焦ってはいけない。準備もあるが、体調管理も重要だからだ。
エルディアはオムライスの残りを食べ尽くし、椅子の背もたれに体を預ける。口元のケチャップを舌で舐め取る動作はそれはそれで色っぽいが、当の本人はそのことに気づいていない。
その後、ウイルも食べ終えたタイミングでこの場は解散となる。
ここからは自由時間だ。もっとも、やるべきことは山積しており、遊んでいる場合ではない。
エルディアは実家に戻る。帰る場所があるのだからそうすべきであり、明日以降、再び帰らぬことを親へ伝える必要がある。
一方のウイルだが、我が家には帰れない。貴族ではないのだから敷地をまたぐことは許されず、用事が済んだら宿で一泊の予定だ。
(買い物しなくちゃ……)
長旅に備え、調達すべきものは多い。
その全てが付近で揃えられるのだから、この国は居心地がよく、なにより快適だ。
(食べ物から……。いや、薬品から見ておこう)
先の旅で一つ学んだ。傷を癒すための薬は必須だ、と。
エルディアが負傷することは考えにくい。だが、ウイルは傭兵としては未熟以外の何者でもなく、魔物の攻撃がかすめただめでも致命的だ。前回のように直撃を受けたのなら、一発で瀕死に追い込まれる。
足を引っ張るにしてもリカバリーは必須だ。そう考え、ウイルは錬金術の専門店へ向かう。
外へ出れば、そこはこの国最大の大通り。いつもと変わらず、行き交う人々で賑わっている。
喧騒の中を少年は進み、五、六分歩けばそこは目的地だ。
こじんまりとしながらも奇妙な雰囲気をまとった店。窓ガラスから見える店内では、陳列された小瓶達が客人を待ちわびている。色とりどりのそれらは至高の薬品であり、魔道具とは別系統の叡智だ。
怪しげなその建物へ、少年は恐る恐る足を踏み入れる。怖気づく理由はその雰囲気もあるが、中の商品がどれも高価だからだ。
扉の開閉が、チリンチリンと小さな音色を響かせる。
それを合図にローブの女がちらりと視線を向けるが、興味なさげに手元の書類へ向き直る。店員だ。会計を行うであろうカウンターの向こう側に座り、無表情なりにも客人を歓迎している。
全身が店内に入り切った瞬間、もやっとした匂いが少年の鼻孔を刺激する。独特な甘さとツンとした強さが両立しており、香水とは似て非なる香りだ。
(エリクシス……と)
見渡す限り、周りは薬品だらけだ。容器の大きさや中身は多種多様だが、ここへ来た目的は明白ゆえ、商品棚の傾向からあたりを付け、真っすぐそこに向かう。
(あった。むぅ、やっぱり高い……。痛いなぁ。でも、やむなし)
視線の先に鎮座する小瓶。中は青色の綺麗な液体で満たされており、用法は振りかけるのだが、飲んだとしても問題なく、なにより美味だ。
エリクシス。たちまち傷を癒してくれる、魔法のような薬品だ。回復魔法が使えない者にとっての生命線であり、可能なら常備したい一品と言えよう。
だが、そう出来ない理由が存在する。その価格だ。
二十万イール。
普通の飲み物なら、安いもので百イール前後なのだから、この金額は別格だ。
それでも今なら買えてしまう。ウイルの所持金はおよそ三十万イール。懐は寂しくなるが、背に腹は代えられない。
(出番がないことを祈るけど……)
買わないという選択肢もない。金がないなら諦めるが、今はなんとか買えてしまう。ならば商品を手に取って、店員の元へ歩み寄れば用事は完了だ。
こうして、ウイルは必需品の一つ、エリクシルを入手する。出費は痛いが仕方ない。一個でも所持いていれば、非常に心強い。
その後、拭き取りシート等の消耗品を購入し、最後は二人分の食料を買えるだけ買えば旅支度は完了だ。
マジックバッグのおかげで荷物はいくらでも持ててしまう。かさばらず、重くもない。非常に便利な魔道具であり、これを作成可能な東の国は相当な技術水準を誇っている。
準備を済ませたのだから、ウイルは明日に備えて宿屋へ向かう。今日一日で所持金は大きく減ったが、これが最後の旅になるのだから、後悔などない。
そう。少年にとっては一区切りだ。
母を助けるため、迷いの森を目指す。ハクアという名の魔女と会い、交渉の上、薬を入手する。
そして、それを持ち帰り、エヴィ家に届ければ目的は達成だ。
もちろん、ウイルは傭兵として生きていくのだから、その後も旅を続けることになる。
だが、その性質は別種だ。
時間に追われることは変わらないかもしれない。
誰かの命に関わるのかもしれない。
それでも、少年が負う責任と心の負担は似て非なる。
今後は一人で。
もしくは誰かと共に。
その誰かがエルディアであればうれしいが、彼女とはこの旅で別の道を歩むことになるだろう。
傭兵とはそういう人種であり、所属するユニティも異なるのだからそれが自然だ。
悲しいが仕方ない。
寂しいが依存するわけにはいかない。
貴族という地位を手放し、傭兵として生きていく。そう決めた以上、独りで生きていく。
(この人ごみとも当然お別れか)
石畳の幅広な道を歩くこと数分。老若男女が作り出す流れに身を委ねながら、小さな子供はやっとの思いでたどり着く。
正面には三階建ての立派な施設。この国の宿屋であり、ウイルはふと気づかされる。
(そういえば、ここでの寝泊まりは初めてだ……)
一階は大浴場となっており、二階と三階で寝泊まりが可能だ。
(前回はお風呂だけ済ませて、その前の日は……、あぁ、変な二人組にからまれたんだっけ。あの人達、何者だったんだろう?)
二人の女についてわかっていることは少ない。
魔女と小さな女の子。
姉と妹。
サタリーナとネイ。
母の病気について何かを知っている、非常に気がかりな二人組だ。問いただす前に謎の魔物が現れ、姉妹は姿をくらましたが、その後の動向はわかっていない。
またどこかで会えるのか。
二度と会えないのか。
わからない。わからないが、その日は彼女らのせいで宿に泊まれなかったのだから、宿代が浮いたと喜べばよいのか、地面は硬くて冷たかったと怒るべきなのか。
そんなことを考えながら、ウイルは巨大な宿屋に足を踏み入れ、一泊したい旨を店員に告げる。
料金を支払い、部屋の鍵を受け取れば手続きは終了だ。
後は、今日という残された時間を自由に過ごせば良い。
入浴を済まし、夕食を食べ、眠る。この三つはこなす必要があるが、外はまだかろうじて明るく、徐々に闇が染み出そうとしているものの、夜と呼ぶにはまだ早い。
ウイルは二階に移動し、与えられた部屋を確認後、大浴場で汚れと疲れを洗い落とす。
家を飛び出して以降、最も変わったことと言えば、入浴という習慣がなくなったことだろうか。拭き取りシートのおかげで清潔ではいられるものの、暖かな湯船に浸ることは出来ず、旅の最中ならなおさらだ。
そういう意味でも、この宿屋はありがたい。出費はかさむものの、今なら手持ちがあるため問題ない。
もっとも、今日の買い出しによって所持金がついに十万イールを下回ってしまった。それでも子供が持つには大金過ぎるが、旅が無事終わった際は、金策の日々を覚悟せねばならない。
部屋に戻り、窓際の椅子に腰かける。外の景色は紛れもなく城下町のそれであり、街道には幸せそうな国民達がどこかを目指して歩いている。
そんな彼らを見下ろしながら、考えるべきことはもう一点。
(あの魔物……。なんで町の中に?)
二人組の魔女を襲った奇妙な魔物。ウイルはその姿をきちんと見たわけではないが、炎のように赤く光っていたことだけは覚えている。
(防衛軍や治維隊が黙ってるはずないんだけど……)
王国の領土内は安全だ。その理由は、そもそも魔物を寄せ付けないからだが、仮に侵入を許したとしても防衛機能によって排除される仕組みになっている。
それが、王国防衛軍という防御専用の軍隊であり、もう一つが治安維持を司る治維隊だ。
治維隊は国民同士のいざこざや犯罪の対処を使命とするため、魔物討伐は管轄外だが、それでも領土内で発見されたのなら駆けつけてくれる。
だが、前回はそうならなかった。
魔女に隠れて視認出来なかったが、そこにいたことは間違いなく、そういう意味では透明ではなかったはずだ。
(可能性としては……、二つ。そいつの存在を黙認してるのか、気づけなかった……?)
もちろん、前者は考えにくい。魔女すらも魔物として扱うような国が、本物の魔物に領土内での活動を許すはずがない。
ならば、シンプルに後者だ。
軍隊や治維隊の監視をすり抜けられる。そういう能力を保持していると考えた方が腑に落ちる。
(だとしたら、怖いな。そんなのがすぐそばにいるのかも……なんだから)
安全神話の崩壊だ。壁を築き、軍人を鍛え上げ、武器防具を生産している理由は、国民を守るためだ。
攻め込まれないようにするため。
もし突破されたとしても即座に排除するため。
イダンリネア王国は牙を研ぎながら待ち構えている。
その準備を嘲笑うかのように、謎の魔物が暗躍している可能性。それを否定出来ないばかりか目撃してしまったのだから、ウイルは恐怖を感じずにはいられない。
(もしも、そいつを見つけてしまったら……。そのことに気づかれてしまったら……。どうなっちゃうんだろう? やっぱり殺されちゃう?)
この魔物と関わった人物は現状三人だ。
ウイル。
魔女のサタリーナ。
その妹、ネイ。
もし、狙われるとしたら、この三人が有力だろう。彼女らは抗えるのかもしれないが、ウイルに関しては不可能だ。戦いにすらならない。
(物騒だなー。お腹減ってきたなー。でも、今からだとちょっと早いなぁ……)
考えたところでわかるはずもない。ならば、目先のことから片づけていく。
椅子の背もたれに寄りかかり、だらりと天井を見上げる。今日はこの部屋で一泊するのだから、狭さも含めてこの風景を受け入れるしかない。
(環境の変化にも、食べ物にもすぐに順応出来ちゃった……。僕って案外すごい?)
裕福な暮らし。
贅沢な食事。
それらを全て手放し、この少年は過酷な道を選んだ。
泣き言を言わなかった理由は、そんな暇すらなかったからだ。
貧相な食事に文句を言わなかった理由は、食べなければ死ぬからだ。
適正の有無とは関係なしに、状況がそれを許さなかった。ただ、それだけのことだ。
ウイルは立ち上がり、ベッドへもそっと横たわる。寝るにはまだ早いが、ここではどう過ごそうと本人の自由。
体は疲労を訴えている。マリアーヌ段丘を歩き続け、やっとの思いで帰国したのだから、感じるだるさは本物だ。
寝るか、夕食にするか、町を出歩くか。
傭兵らしい選択肢だ。実家にいた頃は得られなかった自由だが、代償として、命の奪い合いを課せられている。
魔物と戦い、殺す。
理由はシンプルだ。そういう依頼だから。つまりは、誰かのため。
もしくは、自分のため。
美しくも危険なこの世界で、生き抜くためには殺しあうしかない。
ウイル・ヴィエン。生きるために逃げることを選択した少年。
母のため。
そして、自分のため。
迷いの森を目指して、明日旅立つ。
◆
「いきましょー」
彼女の挨拶は始まりを意味する。
だからなのか、少年はピシャリと姿勢を正し、適度な緊張感を感じ取る。
「おはようございます。僕の準備はバッチリです」
ここはギルド会館、その左手側だ。食堂ゆえに多数の椅子とテーブルが鎮座しており、ウイルは端に座って入り口を眺めていた。
机の上には飲みかけのオレンジジュース。残り半分ゆえ、すぐにでも飲み干せる残量だ。
「おっけー。今回はもっと時間かかるから、私も気合入れてるよー」
茶色の髪が、ふわりと踊りながら彼女の顔を包み込む。
黒の薄着とその上に装着したスチールアーマー。
紺色のロングスカート。
エルディアの登場だ。飴色の背負い鞄は今回もパンパンに膨らんでおり、灰色の大剣も含めればかなりの重量だろう。
「僕も……気合十分です。日持ちする食べ物もいっぱい買い溜めておきました。後は体力さえ持ってくれれば……」
横一線に切り揃えられたグレーの髪。
小麦色の庶民着と黒いハーフパンツ。
足元には色褪せたマジックバッグ。
腰から短剣をぶら下げていなければ、どこにでもいる子供だ。自信満々とはいかないが、ウイルもまた、テンションを上げて旅にのぞもうとしている。
「うっし。早速向かおう」
「はい!」
出発だ。二人旅は二度目になるが、前回と今回とでは規模感が異なる。
距離にして、およそ三倍。
昇進試験ではルルーブ森林までの旅路となったが、迷いの森はその遥か先だ。
イダンリネア王国を出国後、二人は基本的に南西を目指しながら、いくつもの地域を越えていく。
マリアーヌ段丘。
ルルーブ森林。ここまでが前回の道のりだ。
シイダン耕地。
ケイロー渓谷。
蛇の大穴。ここを通過するため、ギルドカードが必要だった。
ミファレト荒野。
そして、その南西に位置する迷いの森こそが、ウイルの目的地だ。
白紙大典に行けと言われたから向かうのではない。
そうすることで母を救えると信じているからこそ、少年は迷いのない一歩を踏み出す。
(もう既に十日……。余裕なんて、どこにもない)
母の発病からそれだけの日数が経過した。
リミットは三か月。焦る必要はないのかもしれないが、薬の入手で終わりではない。それを持ち帰り、届けてやっと完了だ。母の容態を考慮するなら早ければ早いほど良いのだから、そういう意味でも急ぎたい。
イダンリネア王国と迷いの森は、距離にすると五百キロメートル以上も離れている。徒歩だと二週間以上はかかってしまう。魔物という障害を無視した上での算出ゆえ、実際にはおよそ三週間が現実的な数字か。
往復ならその倍となり、迷いの森で待ち時間等が発生すれば、二か月などあっという間に過ぎ去ってしまう。
だからこそ、余裕はない。母がギリギリまで耐えられる保証などないのだから、今回は無理をしてでも急ぎたい。
その手段の一つとして、走ることも検討した。見た目こそ変化はないが、ウイルの体力はいくらか向上している。長時間は無理だが、以前よりは迅速な移動が可能なはずだ。
ばてた後はエルディアに運んでもらえば良く、そういう意味でもこの案は最速と言える。
正確には、初めから最後までエルディアに抱えてもらっての移動が最短記録を叩き出すのだが、ウイルはそれを良しとしない。
甘えたくないのではなく、この旅路を鍛錬の一環だと位置づけているからだ。
もしも、自分達に何かが起きてしまい、結果、別行動となってしまったら、そこからは一人旅を強いられる。
そのような状況を想定した場合、今の内に体力の向上を図らねばならない。付け焼刃だとわかってはいても、何もしないよりは安心だ。
目的達成のための確率を少しでも上げる。そのためには、ウイル自身が強くならなければならない。それを自覚しているからこそ、エルディアに頼りきってはならない。
「今日はお天気ぐずりそうね。んじゃ、そろそろ走ってみる?」
王国の領土からマリアーヌ段丘へ差し掛かったタイミングで、エルディアが早速この案を持ち掛ける。
彼女の発言通り、大空は灰色の雲に覆われており、心地の良い朝とは言えない。傾斜だらけの草原も薄暗く、それでもなお、二人の足取りは力強いままだ。
「すぐにへばっちゃったら、ごめんなさい……」
「なーに言ってるの。君の旅なんだから君のペースで良いんだよ。遅れは私が取り戻すしねー」
やる前から委縮するウイルと、諭すように笑顔を向けるエルディア。
勇気づけられた以上、己を鼓舞してトライするしかない。
「いきます……!」
「ゴー」
少年は走り出す。腕を振り、地面を蹴って急加速。背中で暴れるマジックバッグが少し煩わしいが、気にせず疾走に集中する。
「もっと腕振ってー。こんな感……」
エルディアのアドバイスはありがたいが、あっという間に追い抜かれてしまったばかりか、声が届かぬほど離れてしまったため、内容は全て伝わらない。
(は、速い……。僕の何倍?)
驚きながらもウイルは走り続ける。徒競走ではないのだから彼女に追いつく必要はなく、今は適切なペースを探り、それを維持すれば良い。
「そういえばさー」
(後ろ向きでこの速さ⁉ すごいというか、もはや怖い……)
豆粒だったエルディアが、正面を向いたままの逆走で瞬く間に合流する。後ろ走りでさえ目で追えぬ速度だ。彼女の身体能力だからこそ可能な芸当と言える。
「具体的には何日で着きたいの?」
「あ……。ごめんなさい、伝え忘れてました。一番大事なことでしたよね……」
二人は一旦減速する。エルディアは問題ないが、ウイルは早速息切れ気味だ。歩きながら呼吸を整える必要がある。
「えっと……。と、十日くらいは……、やっぱり無茶ですか?」
一日、五十キロメートルのペースを維持することが出来れば、理論上は十数日で迷いの森に着けるはずだ。休憩をほとんどせず、魔物と遭遇しても減速せずに対処し続ける。この二つを厳守し続けることで達成可能だが、裏を返すと現実的ではない。
ウイルの体力では休憩は必須だ。食事も欠かせない。
魔物の恐ろしやは身をもって知ったばかりなのだから、ウイルの発言は夢物語だろう。
「よゆーっしょー。本気出したら一日二日の距離だし。んじゃ、駆けっこ再開~」
エルディアは表情を変えず、腿の上げ下げを加速させる。荷物の総重量は隣の子供と同等かそれ以上なのだが、その動きは軽快そのものだ。
(本気なら……、一日か二日……? え? 意味が、わからない……)
唖然としながら、少年は彼女の後姿を眺める。追わなければならないのだが、今は駆ける気になれず、意味不明な発言を反芻するのがやっとだ。
五百キロメートル超を数日で。
もちろん、にわかには信じがたい。単なる戯言か勘違いにしか思えないが、少なくともエルディアはしれっと言ってのけた。
一般常識や教養があるからこそ、ウイルはめまいを覚える。
だが、彼女は傭兵だ。学校や両親から教わった価値観は当てはまらない。そんなことはわかっていても、今の発言には信ぴょう性を感じられなかった。
(嘘……、じゃないんだろうなぁ。見栄を張ったわけでも、ない。すごいなぁ……。僕は、何年くらいであの人くらい強くなれるんだろう?)
地平線の彼方へ消え去りそうなエルディアへ、羨望の眼差しを向けるウイル。まだまだ追い付けないとわかっていながらも、その差を縮めるために淡々と走り出す。
お手本とするには荒々しい。
目標とするには遠過ぎる。
それでもいつかは肩を並べたいと願ってしまう。そう思う気持ちは野心的過ぎるかもしれないが、嘘偽りない本心だ。
「というか、置いていかないでくださ~い……」
彼女がついに見えなくなった。走力の差ゆえ、仕方のない現実だ。
「……めんごめーん。いやー、張り切っちゃったゼ」
「戻るのも速いですね」
悲鳴が届いたのか、エルディアが逆走と共に帰還する。
「もっと腕振った方が速くなるよー。ぶん! ぶん! って」
「は、はいぃ……」
頭では理解している。それでも型が崩れる理由は維持し続けるだけのスタミナがないからであり、指摘された今だけは力一杯両腕を振るうも、そう長くはもたない。
その後も両者は大草原を駆ける。エルディアはそのペースを我慢出来ないのか、ウイルを急かすように前後へ激しくぶれ続けるも、なぜか汗一つかいていない。
「顎上がってきたねー。そろそろ休憩するー?」
彼女の指摘はありがたい。この少年はすっかり息切れ中だ。体力も底を尽きかけており、太った体の自重がとにかく恨めしい。
ヒューヒュー、と弱々しい呼吸のまま、ウイルは顔を左右に振る。まだ走れる、という意思表示だが、実際は空元気以外のなにものでもない。
「お、いいねー。なら、この調子で後二時間くらいはいけるかな?」
(あ、それは無理)
悪気のない発言が少年の心をへし折る。意思が敗れた以上、限界だった体もついに崩れ落ちるが、それを責めるのは酷だろう。
草原というベッドに受け入れられ、全身で大地の暖かさと大きさを感じ取る。
疲れた体に染みわたる充足感。もっとも、それは一瞬の時だった。
「よっしゃ。ここからはお任せあれー」
「ひえぇ……」
右腕でさっと拾い上げ、ウイルを脇に抱えたままエルディアが駆けだす。待っていましたと言わんばかりの加速力が、少年に小さな悲鳴をあげさせる。
(落とされたりしたら……、死ぬなぁ、僕)
地面が近いからか、この状況はただただ恐怖だ。ウッドファンガーに殺されかけたばかりだが、超スピードですれ違う大地を目の当たりにしていると、自然と死を覚悟してしまう。
「お昼までは走っちゃうから、そのまま寝てていいよー」
「は、はーい……」
エルディアの気遣いはありがたいが、この状況での居眠りは無理だ。魔物すら驚く移動速度には、それ相応の振動がつきまどう。上下に揺さぶられているからか、疲れてはいるものの眠くはならない。
彼女は走る。
魔物すら置き去りにして走り続ける。
(僕の体重が四十くらい? 少しくらいは痩せられたのかな? どちらにせよ、すごいな。片腕で、しかもこの速度……)
荷物はこの少年だけではない。
鋼製の巨大な剣。
荷物がぎゅうぎゅうに詰まった鞄。
見た目よりも重たいスチールアーマー。
それでも彼女は立ち止まらない。
弱音すら吐かない。
突風の如く駆け、ウイルを目的地へ送り届ける。
それが、少年と交わした約束だから。
そして、彼女自身の渇きを潤すのだから。
ここはマリアーヌ段丘。本当の旅は始まったばかりだ。