プツと、返事もなく切られた電話に、義彦は苦笑した。
「兄さん、お幸せに」
兄は頭がおかしいのだ。
あんな、うじうじ自己憐憫馬鹿オンナの何がいいんだか、人生のすべてを賭けて、手に入れたのだから。
シフトに入るたびバイト先に来たり、社会人になった後も、毎日のように連絡してきて、定期的に合う。
なまじっか普通の兄妹だとしてもまずありえない、恋人の距離感。
それを気のない女相手にやるような男、普通なら怖い。
どれだけ能天気なのか。
(まあ、その頭のおかしい兄と俺も同じ穴の狢なわけだが……)
ガチャと、玄関が開く音がして義彦はいそいそと向かった。
「お帰りなさい、麗音さん」
義彦はにっこりと微笑みかけた。
いつも美しい麗音。でも今は精彩を欠いている。
それはきっと、義彦だけが気づいているささやかな変化。
でもこの状況が続けばいずれ駄目になる。義彦としてはべつにそれでもいいけれど。
「……ただいま」
麗音の顔にはまだいたのと書かれている。
そう、義彦は麗音のマンションに昨夜泊まったまま帰らなかった、機を逃さないために。
体の関係こそあるが、実際のところ、麗音は義彦に興味がない。法律のアドバイスをしてくれて、いつでも駆けつけてくれて自分に惚れている便利なセフレとしか思われてないのだ。
義彦は靴を脱ぐ麗音に声をかけた。
「さっき、兄さんと電話で話したんですが、とても幸せそうで、ちょっとあてられましたよ」
麗音が麗に縁を切られたことを知らない体で話すと、彼女の細い体がふらりと倒れ込みそうになったので、強く抱きしめた。
「麗に、麗が、本当に、麗は、麗に、わたし、捨てられた……」
「そうなんですか? 可哀想に」
混乱し言葉がうまく発せない麗音の震える体をぎゅっと強く抱きしめる。
(やっとこの姉妹を、引き剥がせた)
一見、妹が姉に依存しているこの姉妹は、その実、姉が妹に依存しきっている。
何をしても凄いと褒めてくれる妹。
全てを肯定してくれる妹。
おざなりにしても一途に愛して待っていてくれる妹。
自分のためならなんだってしてくれる妹。
それはまるで、子が母親に求める無償の愛。
父親はあれで、母親もまた麗音を愛してはいるが、自分の次にという言葉がつく。
そんな環境で育った麗音という人は強気な姿とはうらはらに、愛を欲しがる寂しがり屋なのだ。
だから、血の繋がりに価値を見出し、完璧な姉の虚像に心酔する妹のため、完璧な姉になっていった。
義彦が出会ったばかりの高校生のころは今ほど完璧ではなかった。
優秀な人ではあったが、他者を圧倒するほどではない。
だが、妹に幻滅されたくなくて、麗音は必死になったのだ。その妹をおざなりにするほどに。
普通ならそんな関係長くは続かない。
だが、この姉妹は見事に凹凸が嵌った。
妹は姉に尽くすことで愛を求め、姉は尽くされることで愛を求めた。
妹が姉の膝に縋り、姉は妹の背中に縋っていた。
姉妹二人だけの閉じきった世界。
そこに割って入ろうというのだから、兄の立てた計画には時間も金もかかっただろう。
だから義彦も乗っかったのだ。
別に兄と打ち合わせしたわけではない。
我々はよく似ている、それだけだ。
「大丈夫ですよ、麗音さん。俺がずっとおそばにいますから」
義彦は麗音を強く抱きしめながら額を合わせた。
「ずっと……?」
「ええ、ずっと、ずっと一緒にいます。俺はずっと麗音さんを愛してきたんですから」
それは、真実。
義彦は麗音を愛しているから追いかけた。
初めて出会ったときからずっと麗音を愛していた。
だから、あの妹が目障りで仕方なかった。
「本当に?」
「麗音さんのためなら、たとえ地獄の果てだって追いかけてみせますよ」
義彦は目の奥にきらめく興奮を抑えられる自信がなかったので、抱きしめて顔を見せなくした。
その代わり耳元で脳に浸透させるように囁いた。
「愛しています、この世で唯一あなたを、俺だけが愛しています」
(だから、愛しい人よ、早く俺のもとに堕ちてこい)
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