テラーノベル
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いつもの午後。窓から柔らかな陽が差し込み、家の中は穏やかな空気に包まれている。けれど、テーブルの端で宿題をしているすちの視線は、どこか落ち着かない。
ふと横を見ると、みこととこさめが二人並んでいるいるまを、心配そうに見つめていた。顔にはいつもの無邪気さはなく、戸惑いと困りごとを抱えたような――そんな表情だ。
すちは気になって、そっと近づき声を潜める。
「どうしたの、こっそり話してるみたいだけど」
みこととこさめは一瞬顔を合わせ、目で短く会話を交わす。みことの眉が少し寄り、こさめは小さく首を振るような仕草をした。二人とも何か迷っているらしい。
ひまなつも通りかかり、興味深そうに首を傾げる。
「どうした? えらく深刻そうじゃねーか」
みことは、ひまなつの目をまっすぐに見つめると、両手を口元に寄せて『内緒話』のしぐさをした。
ひまなつは軽く屈んで耳を差し出す。小さな距離に顔を寄せられて、みことは静かに囁いた。言葉ははっきりとは聞こえない――ただ、ひまなつの表情が少し動き、眉が上がって「え?」と小さく戸惑う。
少し考え込んだあと、ひまなつは真剣な顔で小さく頷き、こう返した。
「……わかった。後でちゃんと見るよ、任せとけ」
そのやり取りを遠目に見ていたすちは、胸の中がぽっ、と熱くなるのを感じる。
みことがひまなつに内緒話をできるほど心を許している――それ自体は嬉しく、誇らしいはずなのに、どういうわけか胸の中に小さなもやもやがぽっかりと生まれている。
(なんでだろう……)
すちは自分の気持ちを言葉にしないまま、視線をみことへ戻す。みことはすちに気付くと、ほんのわずかだが微笑んでみせた。すちの心は一瞬和らぐ。だが同時に、どこか打ち消せない独占欲のようなものが顔を出す。
(頼りにならないのかな…俺だけ頼ればいいのに……)
その考えが不意に現れると、すちは自分で驚き、すぐにそれを否定しようとした。
兄として弟たちを守りたいという気持ちだけで、芽生えたのだろう――
そう自分に言い聞かせながらも、胸の中でくすぶる感情は簡単には消えない。
――揺れ動く思いを胸に、すちはテーブルに肘をついて黙っていた。
小さな決意がすちの中で育ち始める。
弟たちのために、もっと頼りになれる自分になろう、と。外の光は変わらず優しく、家の中の時間はゆっくりと流れていった。
夜は深まり、静かな寝息が部屋に満ちていた。それぞれの兄の自室で弟達は一緒に眠る日々が続いていた。
みことはすちの隣にぴったりと身を寄せ、安心したように眠っている。こさめもらんの腕の中で笑みを浮かべながら眠り、ひまなつの隣ではいるまが横になっていた。
だが――夢の中では、いるまだけが苦しんでいた。
荒い呼吸。額に滲むじっとりとした汗。
「……やめろ……くるな……」
低く震える声が漏れると、体がびくんと跳ね、シーツが軋む。
その異変に、ひまなつはほとんど反射のように目を覚ました。
横を見れば、いるまの顔は青ざめ、全身を震わせている。
(まただ……)
昼間、みことが内緒話で伝えてきた言葉が脳裏に蘇る。
――「…いるまくんね、毎年この時期、悪い夢見て、苦しくなってる…本人は 気づいてないけど、おれとこさめ、知ってる…」
その言葉の意味を、今まさにひまなつは目の当たりにしていた。
「いるま……」
そっと声をかけながら、ひまなつは彼を力強く抱き寄せる。暴れるように腕を振るわれても、逃がさない。胸に押しつけるようにして、背を大きな手でさすりながら、一定のリズムで名前を呼び続けた。
「……いるま、大丈夫だ。俺がいる。もう何もさせねぇ」
夢と現実の境目で怯えるいるまは、声にならない呻きを漏らし、必死に抗おうとする。けれど、ひまなつの体温に包まれているうちに、その力は次第に弱まり、震えに変わっていった。
「……怖い……やめろ……」
「……っ、クソ……何されたら、こんな……」
ひまなつは歯を食いしばる。想像もしたくない過去。小さなころ、どれほどの恐怖を刷り込まれてきたのか――その残酷さに怒りがこみ上げる。だが、怒りよりも優先すべきは目の前のいるまだ。
「大丈夫だ……現実じゃねぇ。俺がここにいる」
そう繰り返し囁き、頭を撫でる。
力の抜けたいるまは、やがてぽつりと「……ごめんなさい……ごめんなさい……」と謝罪を繰り返した。涙が頬を濡らし、ひまなつの服をしっとりと濡らしていく。
「謝んな……お前は悪くねぇ」
強く抱きしめながら、ひまなつは何度もそう言った。
やがて、いるまの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻し、浅い眠りへと戻っていった。ひまなつは眠れないまま、その背を撫で続ける。胸の奥にはまだ怒りが渦巻いていたが、それ以上に「守りたい」という想いが、静かに深く根を下ろしていった。
朝の光が部屋に差し込む。
布団の中で目を開けたのは、まずひまなつだった。腕の中で眠るいるまの顔をじっと見つめる。汗で湿った髪が額にはりつき、目の下には薄い隈ができていた。
「……やっぱ覚えてねぇかな」
昨夜のことを思い出しながら、ひまなつは小さく息を吐いた。
しばらくして、いるま自身はようやく目を覚まし、欠伸をしながら体を起こす。
だがその動きはどこか重く、顔色も優れない。リビングに行くとみこととこさめは心配そうに見つめる。
「なんだよ……お前ら、朝からじっと見て。気持ちわりぃ」
強がるように笑みを浮かべたが、その声は少し掠れていた。
「……疲れてる顔してる」
こさめが心配そうに言う。
「夢……また見たんじゃない?」
みことが小さく問いかける。
いるまは首をかしげ、「夢? 覚えてねぇよ。何言ってんだ」と鼻を鳴らした。
自分では本当に心当たりがないのだ。
そのやり取りを見ていた兄たちは視線を交わし合う。昨夜のことを知っているひまなつが口を開きかけたが、結局言葉を飲み込んだ。
「……まあ、あんま無理すんなよ」
それだけ言い、いつものようにいるまの頭をくしゃっと撫でる。
兄たちは、弟たちが「抱えきれない痛み」を心の奥に隠していることを改めて感じ、何とか支えてやりたいと胸に誓った。
朝食の時間。
兄弟たちが並んで座り、湯気の立つ味噌汁と焼き魚が並べられる。
こさめが「いただきまーす!」と元気に手を合わせると、場が少しだけ明るくなった。
だが、いるまの箸はなかなか進まない。
味噌汁を一口飲んだだけで、ぼんやりと視線を落としたまま固まっている。
「……いるまちゃん、食欲ない?」
すちがやわらかい声で問いかける。
「は? 別に……」
言い返そうとしたが、喉が重く、声が掠れてしまった。自分でも驚いたように咳払いする。
「いるまくん、やっぱり疲れてるんだよ」
こさめが小声で言う。らんも頷き、さりげなく魚をほぐして皿に移した。
「無理して食えとは言わねぇけど……ちょっとでも口に入れろ」
兄らしい不器用な優しさに、いるまはむっとしながらも、差し出された魚を箸でつついた。
その横で、みことは落ち着かない様子で味噌汁を見つめていた。
「……いるまくん、また夢見てたんだよね」
思わず口にすると、いるまがぎろりと顔を上げる。
「はぁ? なんでまたそんなこと言うんだ」
「……みこちゃん」
すちが慌ててその肩を引き寄せる。
険しい空気になりかけたところで、ひまなつが割って入った。
「俺が夜中に見た。……夢見て魘されてた。汗びっしょりで、息荒くしてさ」
あえて淡々と告げる声には、怒りを押し殺した響きが混ざっていた。
食卓に静けさが落ちる。
いるまは箸を握ったまま固まり、しばらくしてふてくされたように目を逸らした。
「……知らねぇよ。俺は覚えてねぇんだって」
吐き捨てるように言って、焼き魚を無理やり口に押し込む。
兄たちは顔を見合わせた。
らんが苦い表情でため息をつき、すちもまた、いるまの背中を気にしながら茶碗を持ち直した。
こさめだけが不安げに見つめる。
それぞれが、どうしてやればいいのか分からないまま、静かな朝食は進んでいった。
静まり返った食卓の空気を切るように、みことがすっと席を立った。
茶碗を持ったままのすちが驚いたように見上げる。
「……俺、今日、学校休む」
ぽつりと落とされた言葉に、兄たちとこさめが一斉に「えっ?」と声を上げる。
らんが慌てて「みこと!? 体調悪いのか!?」と問いかけるが、みことは首を振る。
「……いるまくんと一緒に休んで、寝る」
あまりに真っ直ぐな表情で言い切るものだから、兄たちは言葉を失った。
こさめが「……一緒に?」とぽかんと呟く。
当のいるまは、箸を持つ手を止めたまま呆然と固まっていた。
「は? お前……何言ってんだよ」
「ほんとに休む。俺、決めた」
みことの声はいつもより低く、頑固な響きを帯びていた。
兄たちは顔を見合わせた。
すちは「みこと……」と宥めるように声をかけたが、みことの目は揺らがない。
ひまなつも、らんも、これはもう誰も止められないと悟る。
最後にいるまが大きく息を吐いた。
「……チッ、分かったよ。好きにしろ」
素直に折れたというより、みことの性格を知っているが故の諦めだった。
その後、急ぎ足で支度を済ませた兄3人とこさめは、渋々学校へと向かう。
残された家の中には、みことといるまの二人だけ。
静けさが戻った部屋で、ようやくいるまは視線を逸らしながら、みことにぽつりと問う。
「……お前、なんでそこまでして俺と一緒にいんだよ」
いるまの問いに、みことは特に考え込むこともなく、淡々と返した。
「……寝不足なの、知ってるから」
短い言葉に、いるまは一瞬言葉を失った。
その眼差しには心配でも憐れみでもなく、ただ事実を告げるようなまっすぐさがあった。
「……っ、別に俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
すとんと切り落とすように返して、みことは立ち上がった。
驚くいるまの腕を引いて、そのまま自分の部屋へと歩いていく。
抵抗する暇もなく、布団の前に辿り着いたいるまは、みことに促されるままベッドへ横たわる。
「……お前なぁ、ほんと勝手すぎ……」
口では文句を言いながらも、まぶたは重く、身体はじんわりと疲労を訴えている。
その横に、当然のようにみことが潜り込んできた。
そして何の前触れもなく、抱きしめるように腕を回してくる。
「お、おい……っ」
「……一緒に寝る」
囁く声は穏やかで、温かさを含んでいた。
幼い頃からずっと張り詰めてきたいるまの身体が、不意にほどけていくような感覚。
胸の中にみことの体温が広がって、反射的に抗おうとした気持ちが萎んでいく。
いるまは諦め半分、安堵半分のため息をつきながら、静かに目を閉じた。
「……ったく、仕方ねぇやつだな」
みことは返事をせず、ただぎゅっと抱きしめる腕の力を強めるだけだった。
やがて二人の呼吸がゆっくりと揃っていき、静かな寝息が部屋に満ちていった。
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めっちゃハマる 続き楽しみにしてます!