テラーノベル
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「たまには一人でお散歩をしたいのですが……」
ある日の午後、勇気を出してそう願ってみたけれど、クラウド様の答えはいつもと同じだった。
「だめだよ、エリシア。女性一人では危険が多すぎる。……君に何かあったら、私は生きていけない」
一点張りの拒絶。
だが、それだけではない。
私がふとした拍子にクラウド様の私室に入ろうとすれば、彼は執拗なまでに出入りを止め、遠ざける。
さらに、この屋敷で私に許されているのは、クラウド様か私が作った料理とお菓子だけ。
外部の人間が触れたものは、一切私の口には運ばれない。
愛してくれているのは、痛いほど伝わってくる。
けれど、その愛という名の薄い膜に包まれるたび、私の胸にはどろりとした不信感が募っていった。
そんな折、クラウド様が二泊三日の遠征で隣町へ行くと聞いた。
私はこの好機を逃さなかった。
彼が留守の間、どうしても気になっていた彼の自室を覗くことに決めたのだ。
重厚な扉を、震える手で押し開ける。
そこに広がっていたのは、私のためだけに用意された、あまりにも歪な「聖域」だった。
真っ先に目に飛び込んできたのは、壁一面を埋め尽くす無数の銀板写真だ。
淡く光を反射するそれらに写っているのは、すべて、私──。
微笑んでいる横顔。庭で花に目を落とす横顔。
読書に夢中になって無防備にあくびをする瞬間や、自分でも気づいていなかった、少し困ったように眉を寄せた表情まで。
表情ごと、角度ごとに克明に分けられ
一枚一枚が丁寧に磨き上げられて、寸分の狂いもなく並べられている。
まるで、私の「時」をすべて止めて閉じ込めた、音のない聖堂のようだった。
足が震えるのを抑えながら書棚へ近づくと、そこには以前、私が好きだと教えた作家の本だけが揃えられていた。
背表紙の擦れ具合から、クラウド様がそれを何度も、何度も読み返したことが嫌というほど伝わってくる。
さらに、机の上には整然と並べられた紙束があった。
そこには日付と共に、私のすべてが記されていた。
体調、表情、会話、食べたもの。
──エリシアが笑った理由。
──エリシアが黙り込んだ時間。
──エリシアが嘘をつくときのクセ。
──エリシアが僕以外に向けた笑顔の回数。
どれも驚くほど細かく、そして優しい筆致で記されている。
けれど、その細かさが、かえって私を震えさせた。
そして、恐る恐る開いた、最奥の引き出し。
躊躇いながら開けたそこには、以前私が処分したと思っていた、あの「穴の空いた手袋」があった。
何より、あの日クラウド様が拾って、「捨てておく」と言ったものだ。
他にも、いつの間にか取れていたボタンや、無くしたと思っていた古いハンカチ。
すべてが宝石のように丁寧に包まれ、大切に保管されていた。
「……どうして」
喉が震え、声にならない吐息が漏れる。
愛されている。
そう言い切るには、これはあまりにも静かで
けれど拒絶するには、あまりにも執拗な愛の痕跡だった。
胸の奥が、きゅっと縮こまって痛い。
クラウド様は、優しくて、完璧で、思慮深くて、私に何もかもを与えてくれる人。
なのに、その優しさの行先が、私の知らない場所に向かっている。
知らないままで、私はここに居ていいのか。
愛されている証拠ばかりなのに、その〝愛の形〟だけが、どうしても掴めなかった。
私は静かに引き出しを閉じ、逃げるようにその部屋を後にした。
(……この屋敷から、クラウド様から、逃げないと)
自室に戻るなり、私は狂ったように荷造りを始めた。
持ち出したのは、本当にわずかなものだけ。
着替え一式と、旅用の小袋。
クラウド様から贈られた煌びやかな装飾品も、美しいドレスも、すべてこの部屋に置いていく。
(……とにかく、遠くへ。逃げないと)
逃げる理由を、上手く言葉にできない。
けれど、この屋敷に留まっていたら
自分がクラウド様という巨大な存在の中に溶けて、消えてしまいそうな予感がした。
深夜の廊下は、驚くほど静まり返っていた。
使用人の気配さえない。私は玄関ホールにたどり着き、重い大きな扉に手をかけた。
──今なら。
そう思った瞬間、手足が小刻みに震え始めた。
大丈夫。一歩だけ、外へ踏み出せばいい。
扉を押し開けると、冷たい夜気が私の頬を撫でた。
見張りの目を掻い潜り、月明かりが白く敷石を照らす庭へ。
(今のうち……!)
息を整え、外套の袖をぎゅっと掴み、もう一歩踏み出そうとしたそのとき。
「──エリシア」
低く、けれどどこまでも穏やかな声。
私の視界が、大きな影に遮られた。
「……っ! クラウド、様……っ?ウ、ウソ……まだ、遠征で隣町にいらっしゃるはずでは……」
月光を背負って立つクラウド様は、いつもと変わらない、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……ああ、そのことなら、思ったより早く片付いてね。君に会いたくて急いで帰ってきたんだよ」
私が恐怖で一歩後ずさろうとすると、クラウド様の視線が私の手元にある荷物へと落ちた。
「それより……こんな夜分遅くに、そんな荷物を抱えて。どこに行くんだい?」
まるで本当に、散歩に出る恋人を心配するような、優しい声音。
私の胸は大きく上下し、呼吸が乱れる。
けれど、もう誤魔化して戻る勇気などなかった。
「……こ、ここから、逃げるんです」
声は震えていたけれど、言葉だけははっきりと紡いだ。
「クラウド様が、怖くなったんです。……あのお部屋を、見てしまって……」
その瞬間、クラウド様の瞳がわずかに揺れた。
私は俯いたまま、堰を切ったように言葉を重ねる。
「全部、私のことばかりで……っ。優しくて、丁寧で、でも……それなのに、クラウド様は私を愛していると言いつつ、未だに口付けもしてくださりません……!」
「手も出してくれない。私が夜のお誘いをしても、大切だからって理由をつけて、いつも私を拒まれますよね……っ」
ぎゅっと拳を握りしめる。涙が溢れ出し、視界が滲んだ。
「だから本当は……大切だからなんて、嘘で。……私のこと、女として見てくださっていないんですよね……?」
「だから、ここから──」
クラウド様の脇をすり抜けて逃げようとした、その瞬間。
私の手首が、万力のような力で強く掴まれた。
「っ……!」
驚いて振り向くより早く、視界が暗転する。
唇に、熱く柔らかな圧が重なった。
「───っ!?」
息を吸う間もなかった。
初めて触れ合うその感触は、狂おしいほど優しいのに、決して逃がさないという猛烈な意思を帯びていて。
まるで、永遠のように時間の感覚が失われる。
必死に抵抗しようとクラウド様の胸を押したけれど、彼はびくともしない。
息が苦しくなり、体がガクガクと震えだしたころで、ようやく唇が離れた。
二人の間には、月の光を受けて銀色に光る糸が引いていた。
「……本当は」
額を寄せ合うほどの至近距離で、クラウド様が低く囁いた。
その声は、震えていた。
「君を、壊してしまいそうで怖かったんだ」
熱い吐息が私の頬にかかる。
「君のことが好きすぎて、欲しくて、縛って、逃げ場を無くしてしまいそうで……。だから、君に求められても、一度触れたら歯止めが効かなくなりそうで……簡単に触れることができなかった」
クラウド様の指が、私の輪郭をなぞるように、熱を持って這う。
「だけど───」
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑みは、今まで見たどんなものよりも美しく、そして残酷だった。
「君にこんな顔をさせて……こんなに僕を怖がって、逃げようとするくらいなら…僕の愛を、きちんとその体に教え込むしかないようだ」
瞬間、視界が浮き上がった。
「…! ク、クラウド様……っ、!何を……っ」
「大丈夫だよ、エリシア。君は僕だけのものだ。わからないから怖がるんだろう? 今夜はそれを……君自身に、骨の髄まで理解してもらうよ」
それだけを言うと
私を姫抱きにしたまま、クラウド様は迷いのない足取りで
あの「聖域」……自分の部屋へと向かって歩き出した。
「……っ、は、放してください……! 嫌、っ!」
私はクラウド様の腕の中で、必死に足をバタバタさせて抵抗を試みた。
けれど、鍛えられた彼の体は岩のように揺るぎなく
私の無力な足掻きをあざ笑うかのように、ただ軽々とその重みを受け止めている。
「……っ、んん……!」
再び、降ってきた熱い唇に声を塞がれた。
それは吸い付くように深く、舌先で執拗に弄ばれるような、初めて知る強引な口付け。
頭の芯が痺れ、肺の酸素が奪われていくにつれ
あれほど必死だった抵抗の力は、指先からずるずると零れ落ちていった。
ようやく唇が解放されたとき、私は力なく彼の肩に頭を預けることしかできなかった。
潤んだ瞳で彼を仰ぎ見ると、クラウド様は見たこともないような昏い情熱を宿した瞳で私を見下ろし
耳元に唇を寄せて低く、冷徹に囁いた。
「暴れると、優しくしてあげられないよ。……大人しく僕の腕の中にいて」
「……ん……う……」
その支配的な響きに、私は熱に浮かされたような声にならない返事しかできなかった。
拒絶しなければいけないのに、彼の腕の強さが
私を独占しようとするその執念が、どうしようもなく甘く私を縛り上げる。
廊下の灯りが消えた静寂の中、クラウド様は獲物を自らの巣へと運ぶ獣のように
迷いのない足取りで自室の重厚な扉を蹴り開けた。
私を抱きかかえる彼の腕は、もう二度と離さないと言わんばかりの力で私を締め付けている。
彼の胸の鼓動が、恐ろしいほど激しく私に伝わっていた。
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