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ゆずき
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戸崎を訪ねたいと思ったものの、なかなか勇気が出ず、行動に移せなかった。行こうかどうしようか迷いつつ、いくつかの週末を過ごし、両親が外出したある日曜日の午後になって、私はようやく意を決した。
私を見た時の彼の反応を想像すると、少し怖かった。けれど、ちょっと様子を見るだけだし、迷惑そうだと感じたらすぐに退散すればいいと自分を励まして、家を出た。
ひとまず何か手土産になるものを買おうと考えて、スーパーに足を向けた。あの時やつれて見えた彼の食事の助けになりそうな、栄養機能食品などを見繕い、改めて彼のアパートを目指す。
敷地に入る手前で足を止めた。その先に進むことを躊躇したのだ。
「これを渡して、顔を見て、それでとりあえずは元気だってことを確かめたら、すぐに帰ろう」
いくらかでも緊張を解くために、私は大きく深呼吸をした。それから、建物の階段にゆっくりと足を乗せて、二階にある彼の部屋に向かった。
階段を登り切り、口から心臓が飛び出そうになるくらいどきどきしながら廊下を進んだ。彼の部屋の前に立ち、表札の苗字が「戸崎」であることを確かめる。
私は小刻みに震える指で、ドアの脇にあるチャイムのボタンを押した。
しばらく待ったが、ドアは開かなかった。留守かもしれない、あるいは、チャイムの音に気づかなかった、もしくは、玄関まで出て来るのに手間取っているのかもしれない、などといくつかの理由を頭の中に並べて、もう一度チャイムを鳴らした。
ドアが開いたのは、それから間もなくのことだ。
扉の隙間から顔をのぞかせ、戸崎はひどく気だるげな様子で問いかける。
「誰?」
訪問客が誰なのか、戸崎は分かっていない、あるいは気にしていないように見えた。
緊張で震えそうになる声を私は励ます。
「……お久しぶりです」
「え?」
それまで虚ろだった目をはっとしたように見開き、彼はドアを開けた。
「柚乃……っ」
腹の底から絞り出すような声で言いながら、彼は私の腕をぐいっと引っ張った。そのまま玄関の内に引き込んだかと思うと、両腕を私の体に回して抱き締めた。
「と、戸崎さんっ?」
困惑する私の声は彼には聞こえていないようだった。
「君が死んだなんて、やっぱり何かの間違いだったんだよな。柚乃、柚乃……」
聞いているこちらまで切なくなるような声だった。
それに胸を苦しくさせながら、私は彼の間違いを訂正する。
「私は柚乃じゃありません。離してください」
けれど、現実と非現実との境界線が曖昧な状態にでもなっているのか、私の言葉が彼の耳に届いた様子はない。狂おし気な声で何度も柚乃の名前を呼んでは、その存在を確認するかのように、また、二度と離すまいとするかのように、私を抱く腕に力を込めた。
「お願い、離して……」
あらゆる意味で苦しくなり訴えの声を上げた時だ。戸崎の唇が私の唇を塞いだ。
「……っ!」
突然のことに頭の中が真っ白になった。おかげで、抵抗することを忘れてしまう。
私が呆然としている間も、戸崎のキスは続いた。
彼への想いはもう捨てたはずだった。数週間前に彼を見かけ、その時ときめきを感じたことは否定しないけれど、ただそれだけで終わりのはずだった。それなのに、私への物ではないと分かっているこのキスのせいで、彼への恋が再燃してしまう。
彼は私を柚乃だと思い込んでいる。姉の身代わりでも構わないと思いながら、私は目を閉じて、熱を帯びる一方の戸崎のキスを受け止めていた。
ようやく彼はゆっくりと唇を離した。私の耳元に口づけながら甘い声で囁く。
「柚乃、どんなに君に会いたかったか……。もうどこにも行かないで」
戸崎の両手が私の顔を包み込んだ。
その温もりに切なさを感じながら、私はゆっくりと目を開ける。間近には彼の狼狽した顔があった。
「し、詩乃ちゃん……っ」
戸崎は顔色を失い、よろめきながら私から後退った。
「お、俺、なんてことを……」
戸崎は壁に背を預けて、両手で頭を抱え込んだ。
「ご、ごめん。俺、寝起きで頭がぼうっとしていたんだ。ちょうど柚乃の夢を見ていて、それで、彼女が還って来たと思い込んでしまったみたいで……。まさか、こんな、詩乃ちゃんを傷つけるような真似をしてしまうなんて……。謝って済むことじゃないけど、本当にごめん。どうか頼む。今のことは忘れてくれ」
私は唇を噛み、戸崎を見つめる。
「そんなの……。忘れられるわけ、ないです」
「詩乃ちゃん……。どうすれば許してくれる?」
「許すとか許さないとかじゃないんです」
私はぎゅっと両手を握りしめた。
「初めて会った時からずっと、私は戸崎さんのことが好きでした。だから……」
戸崎の困惑顔に向かって私は続ける。
「私を柚乃だと思ってくれていいんです。私では、柚乃の代わりにはなれませんか?」
「何を言ってるんだ……」
戸崎は呆気に取られた顔をした。冷静さを取り戻そうとするかのようにふうっと息を吐き出し、私を諭す。
「柚乃の代わりはいないんだ。君たちがよく似ている双子であっても、中身は全く違う。柚乃は柚乃、詩乃ちゃんは詩乃ちゃんだよ」
柚乃の代わりにはなれないというのなら、改めて一人の女性として見てほしいと切に思う。
「あなたの傍にいたいんです。私を戸崎さんの彼女にしてほしい」
戸崎は首を横に振る。
「誰とも付き合う気はないんだ。柚乃を忘れる日が来るまでは、ずっとね」
やはりどうあっても、私が戸崎の心の中に入り込む隙はないのだと、改めて思い知る。
「それなら……」
どうしてそんな大胆なことを考えてしまったのだろう。自分にこんな一面があったなんてと驚きながら、私は首の後ろに手を伸ばしてワンピースのボタンを外した。
「詩乃ちゃん、何してるんだ。やめなさい」
狼狽える戸崎を無視して、私は脱いだワンピースを玄関の床に滑り落とした。
「せめて、思い出をください」
「やめるんだ。詩乃ちゃんのそんな姿を見たら、柚乃が悲しむ」
戸崎は私に背を向けて話し続ける。
「柚乃はね。俺と会っていても、君のことを話さない日はなかったよ。昨日は一緒に何をしたとか、どんな話をしたとか、つい詩乃ちゃんに嫉妬してしまうくらいにね。柚乃は本当に詩乃ちゃんのことが大好きだった。大切に想っていたよ。だから、詩乃ちゃん、自分を傷つけるようなことはしないでほしい」
「柚乃が私を大切に想っていた」という戸崎の言葉が胸に刺さり、涙があふれた。
私にとっても柚乃は大切な存在だった。それなのに姉の恋を応援できず、最後には傷つけ、今は、姉が愛した人に対してとんでもない行動を取ってしまった。そんな自分が情けなく恥ずかしく、涙が頬を伝い落ちた。私は慌ただしくワンピースを身に着けて、涙に濡れた声で彼に詫びる。
「ごめんなさい……」
そのまま外に出て行こうとして、床に落としたままになっていたビニール袋に気がつく。それを拾い上げて、廊下の片隅に置いた。
「それ、良かったら食べて下さい。戸崎さんの今のやつれた顔を見たら、柚乃がきっと心配します」
「……ありがとう」
彼は壁を向いたまま短く応じた。
私は彼から目を背けたまま小声で告げる。
「……帰ります」
彼はしばらく無言だったが、のろのろと私に向き直り、ためらいがちに口を開く。
「俺、来月にはこの街を出るつもりなんだ。この街は柚乃との思い出がありすぎて、ここに住み続けるにはやっぱり辛いから。……詩乃ちゃん、今までありがとう。さよなら。元気で」
戸崎は初めて会った時と同じ優しい笑顔で、私をドアの外へと送り出した。
パタンとドアが閉まった後、その向こうにまだいるはずの戸崎に向かって、私はつぶやく。
「さようなら。あなたは私の初恋の人でした」
戸崎への恋に完全に終止符を打った。彼を想ったこれまでの日々が思い出され、新たな涙があふれて流れた。