テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その報せが黄色の国の王都に届いたのは、明け方のことだった。
「赤と黒の軍勢、国境を突破! すでに、王都のすぐ近くまで迫っております!」
あまりの速さだった。国境の砦から早馬を飛ばしても、間に合わないほどの進軍速度。まるで、あらかじめこの国の地理のすべてを知り尽くしているかのような、迷いのない進撃だった。
宮廷は瞬く間に混乱に包まれた。逃げ惑う者、武具を取りに走る者、泣き叫ぶ女官――誰もが、これほど早い侵攻を想定していなかった。
「仁人、逃げるぞ! すぐにだ!」
勇斗が仁人の私室に飛び込んだとき、仁人はまだ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「待ってください。……静けさの間を、閉じないと。母上を、置いていくわけには」
「そんな時間はない!」
「嫌です! せめて――」
仁人は、なおも動こうとしなかった。母を、この王都を、見捨てることなど、できるはずがない。だがそんな猶予は、もはやどこにも残されていなかった。
「――ごめん」
勇斗は短くそう言うと、抵抗する仁人を強引に抱え上げた。
「放して! 勇斗、放してください!」
「悪いけど、聞けない」
叫ぶ仁人を馬上に押し上げ、自らも飛び乗ると、勇斗は手綱を握った。黒色の国仕込みの、並外れた馬さばきだった。人混みをすり抜け、崩れかけた城門を、際どいところで潜り抜ける。背後で、何かが焼け落ちる音がした。
馬を駆りながら、勇斗の中に、行き場のない怒りが渦巻いていた。
なぜ、こんなにも、この人ばかりに困難が降りかかるのか。
誰を恨めばいいのか、勇斗には分からなかった。赤と黒の国を興した男を恨むべきなのか。それとも、こんな世界の仕組みそのものを、恨むべきなのか。答えの出ない問いだけが、頭の中を渦巻いていた。
遠く、土煙の向こうに、赤と黒に彩られた軍旗がはためいているのが見えた。
その中央、指揮を執る一騎の姿に、勇斗は目を凝らした。
――やはり。
もしかしたら、とは思っていた。だが、こうして自分の目で確かめてしまうと、否応なく確信に変わる。
赤と黒の軍勢を率いているのは、舜太だった。
このまま、どこまでも馬を走らせてしまいたい。
いつか仁人が言った言葉が、勇斗の胸に甦る。――君と逃げ果せたい。あの夜と同じ想いが、今、勇斗自身の中にも、確かに芽生えていた。誰も知らない場所で、ただの二人として生きられたら、どれほど楽だろう。
だが、腕の中の仁人が、震える声で呟いた。
「王都が……母上が……」
その声を聞いた瞬間、勇斗は、口にしかけた願いを、静かに飲み込んだ。この人は、逃げることを望んでいない。逃げたくても、逃げられない。その事実の前で、自分の願いなど、口にする資格はないと思った。
西の古都に辿り着いた頃には、日はすっかり傾いていた。
泣き疲れた仁人を、勇斗は寝台にそっと横たえた。ここ数刻の間に、何もかもを失いかけた仁人は、抵抗する力さえ残っていないようだった。
「……勇斗」
「ここにいる。……少し、休め」
その言葉に安堵したのか、仁人はやがて、浅い眠りに落ちていった。
仁人が眠りについたのを見届けると、勇斗は、静かに部屋を出た。
誰にも告げず、再び馬に跨る。向かう先は、王都――今まさに、赤と黒の軍勢が迫っているその場所だった。
夜陰に紛れ、単身、敵陣近くまで馬を進めた勇斗は、見張りの兵に見つかりながらも、かつての名を告げ、舜太への面会を求めた。
「――勇ちゃん。まさか、ここまで来るなんて」
天幕の中、舜太が待っていた。最後に会ったときよりも、さらに鋭さを増した眼差し。かつての人懐っこさは、その奥に深く沈められている。
「久しぶりだな、舜太」
二人の間に、束の間の沈黙が落ちた。互いに、かつての記憶を辿っているのが分かった。
「用件は分かってる。……止めても無駄や」
「分かってる。それでも、来た」
勇斗は、真っ直ぐに舜太を見据えた。
「黄色の国には、大切な人がいる。お前を止められないことは分かってる。それでも、頼みがある。あの人――国王陛下の身の安全と、これ以上の略奪や虐殺だけは、やめてくれないか」
舜太は、しばらく黙って勇斗を見つめた。
「……勇ちゃんは、変わらないな」
ふと、舜太が呟いた。
「困ってる奴、放っておけないんだろ。昔、俺を助けてくれたときと、同じで」
「――覚えてたのか」
「忘れるわけないだろ。あの言葉、ずっと覚えてた」
舜太は、一度目を伏せてから、また顔を上げた。今度は、王としての、冷徹な色を纏った目だった。
「せやけど、俺にも譲れへんもんがある。この国を落とすことは、もう決まってる」
そう言いかけて、舜太は、ふと苦笑を漏らした。
「――いや。お前の頼みも、無下にはしない」
「代わりに、俺の知ってることを教えろ、か」
勇斗が先んじてそう言うと、舜太は驚いたように目を見開いた。
「……分かってたんだ」
「お前の立場なら、それくらいは求めてくるだろうと思ってた」
二人は、しばらく互いを見つめ合った。奇妙な話だが、この状況にあってなお、二人の間には、確かな信頼のようなものが横たわっていた。かつて舜太が、黒色の国の第二王子に己のすべてを賭けて取引を持ちかけたように、今、勇斗もまた、己のすべてを賭けてこの男に賭けようとしていた。
「城の構造、抜け道、守備の配置――全部教える。その代わり、約束は守れよ。民は殺さない、都も焼かない。あの人の命も、絶対に奪わせない」
「ああ。約束する」
かつて交わした「また会おうな」という約束とは、まるで違う種類の約束だった。それでも、その言葉には、かつてと変わらぬ重みが宿っているように、勇斗には感じられた。
交渉を終え、勇斗は再び馬を駆り、夜通し西の古都へと戻った。
夜が明ける頃、仁人は目を覚ました。
隣に、勇斗の姿がなかった。
その事実に、仁人の胸は、静かにけれど深く沈んだ。まるで、これから先、幾度となく繰り返されるであろう未来を、先取りして見せられているかのように。
(――いつか、本当に、いなくなってしまうんじゃないか)
根拠のないその不安を、仁人は誰にも打ち明けられないまま、一人、寝台の中で膝を抱えた。
しばらくして、扉が静かに開いた。
「――ただいま」
勇斗だった。夜通し馬を駆けさせた疲労は、隠しきれないほど色濃く滲んでいたが、それでも勇斗は、努めて明るい声で、仁人にそう告げた。仁人に、これ以上の心配をかけたくなかった。
「勇斗……!」
仁人は、寝台から飛び出すように、勇斗の胸に縋りついた。安堵で、声が震えている。
「どこに、行ってたんですか。急にいなくなって……」
「悪い。……ちょっと、野暮用で」
いつもの、聞き慣れた言い訳だった。仁人は、それ以上追及することなく、ただ強く、勇斗にしがみついた。
勇斗は、その頭を、そっと撫でた。
(――許してくれ)
声には出せない懺悔が、胸の奥から込み上げてくる。
仁人を守るために、故郷を裏切り、かつての友をも利用した。この罪が、いつか自分に、どんな罰をもたらすことになるのか。勇斗には、まだ分からなかった。それでも、今この腕の中にある温もりを守れるなら、その罰を受け入れる覚悟は、とうにできていた。
この夜、二人が交わした約束と、勇斗が一人で背負った罪は、まだ誰にも――仁人自身にすら、知られることはなかった。
コメント
1件
わあ、すごい熱量のある話でしたね……! 勇斗が仁人を無理やり連れ出すシーン、胸が締め付けられました。「ごめん」の一言に、どれだけの決意が込められているかと思うと。それに、舜太と再会して交渉する場面、かつての絆と今の立場の間に揺れる空気がとても丁寧に描かれていて、ぐっときました。勇斗の一人で背負う罪の重さ……ここからの展開、どうなるんでしょう。仁人くんの視点でも続きが読みたいです。
𝕣𝕖𝕒𝕣
395
#ご本人様には関係ありません
あか
261
#からぴち
琉愛˚𓆩✞𓆪˙
191