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北陸交通本社配車室に戸惑う声がボソボソと聞こえる様になった。
走行中のタクシーから発信されるGPS情報が配車室のパソコンモニターに正確な位置を知らせるには距離的に限度がある。
加えて、本線から外れた脇道に進めば《《何となく此処辺りだろう》》程度の情報しか得る事が出来ない。
130号車がそのラインを超えようとしていた。
「佐々木次長、これ以上進むと130号車の位置情報は如何なりますか?」
「大凡、だいたいこの辺りに《《居る》》としか」
「内川方面の山間に建物、番地が表示されている箇所もありますね。これは?」
「以前、客を送迎した際にウチの職員が個別に入力した情報です」
「では、データ入力されていない道、建物、番地も有る、という事ですか」
「はい、そうなります」
「はぁ、それは・・・困ったな」
北陸交通本社配車室に130号車の位置情報が正確に届かない。
その不安と焦りは130号車を運転する西村も同じだった。このままでは本社配車室や警察に正確な《《自分たち》》の位置を知らせる事が出来ない。
「此処、ここ曲がって」
漆黒の山間の道を走っていると突然《《金魚》》がパクパクと口を開いた。
視界の端にトタン屋根の小屋が照らされ、それは錆びて朽ちかけたバスの停留所だった。停留所名は半分消え掛け読み取る事が出来ない。
朱音のアイスピックが指す方を見遣ると、ぽつ、ぽつと灯る木製電柱。だらしなく垂れ下がった送電線には枯れた蔦が巻き付き、ヘッドライトに照らされたそこにはタクシー1台通れるか通れないかの細い道が杉林へと続いていた。
「あ、朱音。ここはタクシーじゃ無理・・・だ」
しかもその細い道は数百メートル先でアスファルトの舗装が途切れ、砂利道になっている。
「良いの、行ける所まで行って」
「こ、此処は無理だ」
「良いから行って!」
襟足に冷たい点が喰い込み緊張が走る。
あまりの息苦しさに臙脂色のネクタイを緩め、右方向へハンドルを切ろうとしたが手のひらに滲んだ汗でそれはツルツルと滑った。ガタン、ガタガタとボディが上下しザリザリと砂利を踏む音が響く。ヘッドライトに一面に降り積もった茶色い松葉が浮かび上がった。
(もう、もう駄目だ。こんな道、GPSには映らない)
「あ、朱音。これ以上進むとバックで戻る事が出来なく、なる」
「戻らなくても良いじゃない」
「え」
「気にしないで、前を見て」
細かいミスト状の水滴がフロントガラスを覆い、前が見辛くワイパーを動かしては見たものの視界は悪化するばかりだ。
時計は22:00を過ぎたところ、気温が冷え込んで来たのだろう、エアコンの効き目が落ち外気との温度差でフロントガラスが曇り出した。
西村がナビゲーションを見ると130号車は既に内川町から大きく外れ、道なき道、山の中を前進している。
(もう、駄目かもしれない)
その時、タクシーの前輪が何かに乗り上げた、いや、脱輪した。運転席側を下に斜面に沿って大きく傾いたボディ、視界が斜めになる。後部座席に座っていた朱音は運転席側のドアに押しやられ、智はその衝撃に抗おうと助手席のヘッドレストに掴まっていた。
「い、痛い」
朱音が呻き声を上げた。西村がシートベルトを外して目を凝らして見ると、朱音が右手に持っていたアイスピックが彼女の左太腿に深く突き刺さっている。
「あ、朱音!大丈夫か!」
「西村さん、痛い・・・痛いよ」
「わ、分かった。今、今助けるからな!」
そう言って運転席側のドアを開けようとしたがこちら側も大きく窪んだ段差に食い込んでドアを開ける事が出来なかった。サイドウィンドの向こう側はシダ植物と降り積もった松葉、泥しか見えない。
「く、くそっ!」
西村は助手席側の窓を開けるとアシストグリップを握り、センターコンソールを蹴り上げて車外に出た。その反動でボディがガタンと揺れ、その度に朱音の呻き声が聞こえた。寒い、外は凍える程に寒い。
「朱音、大丈夫か!今、今助けるからな!」
「に、西村さん」
「待ってろ、朱音!」
(おい、待てよ、助ける?何故、朱音を助ける必要がある?この状況で?)
「智、掴まれ!」
「え」
西村は智の右腕を掴むと力任せに車外へと引き上げた。智の黒いタイツの足裏が朱音の側頭部を蹴り、タクシーのボディがゆらりと揺れる。
「い、痛い!に、西村さん、西村さん!?」
西村は太腿にアイスピックが刺さったままの朱音を大きく傾いたタクシーの車内に1人残し、顔中腫れ上がった智の腕を引っ張りながら松葉の積もる道なき道を全力で走った。革靴の底が濡れた松葉の上で滑り、蹴り上げる度に足が縺れそうになる。息が切れる。寒い、吐く息が白い。
「ひ、裕人。も、もう」
「駄目だ!」
智は靴を履いていなかった。彼女の足は素足に近く、右、左、右と踏み出すたびに枯れた松葉が足裏に刺さりまるで剣山の上を走っている様だった。それでも西村は背後を振り返る事もなく、もう走れないと弱音を吐く智を引き摺るように走り続けた。
どれくらい走り続けただろうか。暗闇に慣れた目。檻のように真っ直ぐ空へと伸びる黒い杉木立の奥、振り返ると大きく傾いていたヘッドライトが”起き上がり小法師”の様に左右に揺れたかと思うとそれは水平になり西村と智の背中を照らした。
(朱音が、朱音がタクシーの中から這い出したのか!?)
「裕人、もう。もう駄目、もう走れない」
「走るんだ!死にたいのか!」
すると杉の木立が途切れ、目の前が開けた。近くに轟々と川の音が聞こえる。足元の枯れた松葉は革靴の半分までズブズブと沈むが、沼地ではなく土、硬い地面の感触。此処は、此処は一体?
「ヒッ!」
気配に目を遣るとやや太めの杉の根元、生い茂ったシダ植物の合間からニョッキリと白い何かが生えていた。
「ちょ、ちょっと待ってろ」
恐る恐る足を進め、ジャケットの胸ポケットから《《私用携帯電話》》を取り出してライトで|翳す《かざす》とそれは白いペンキが剥がれかけた立て看板だった。
「坪、|坪野《つぼの》・・・坪野キャンプ場」
ライトを手に辺りをぐるりと見回すと杉林の奥まった部分には床下に薪がぎっしりと積み上げられ、3段の階段を上ると正面に玄関ドア、その隣に窓がひとつの木製のロッジが建っていた。
「智、来い!隠れるぞ!」
「え、あ。」
西村はその冷たい手を握り、ロッジへと向かい一目散に走った。