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第六十五話 忘れた名前
「……私も、今、何か聞こえた」
彼女は青いリボンを握ったまま、動かなかった。
「何を?」
彼が尋ねる。
「声」
「どんな?」
「……『忘れないから』って」
彼は息を止めた。
自分が今、思い出した言葉と同じだった。
偶然とは思えなかった。
「でも、顔は分からない」
彼女は小さく笑った。
「まただね」
「また?」
「思い出せそうなのに、そこだけ届かない」
彼も同じだった。
何かが確かに存在している。
でも、その中心だけが霧の向こうに隠れている。
二人は近くのベンチに座った。
彼女がスマートフォンを取り出す。
「さっきの番号、調べてみる?」
「うん」
通話履歴を確認する。
けれど、登録されている情報は何もない。
検索しても、手がかりになるものは出てこなかった。
「やっぱり分からないか」
「うん」
彼は画面を閉じようとした。
そのとき、彼女が突然言った。
「ねえ」
「ん?」
「『一度忘れてる』って言ってたよね」
「うん」
「だったら、その人は……私たちが忘れたことを知ってるってことだよね」
「そうだと思う」
「じゃあ、事故のことも知ってる」
「……たぶん」
二人の間に沈黙が落ちた。
彼女はしばらく考えてから、
「事故の日のこと、もう一度整理しよう」
と言った。
二人は今まで見つけたものを、
一つずつ並べていった。
事故の前日に撮られた写真。
店に残されていた箱。
「帰る前に渡す」という言葉。
事故翌日に箱を取りに来た男性。
病院に残っていた記録。
そして、知らない番号からの電話。
「……変だよね」
彼女が言う。
「何が?」
「全部、事故の前後に集中してる」
彼は頷いた。
「俺の記憶がなくなったのも、その頃」
「だったら、箱の中には事故の日に関係するものが入ってたんじゃないかな」
「俺もそう思う」
彼はポケットからキーホルダーを取り出した。
「もしかしたら、これも」
「箱と一緒に?」
「分からない。でも……」
裏側の『ずっと』を見る。
「この言葉、ずっと引っかかってる」
彼女も自分の青いリボンを見つめた。
「私のこれにも、同じような意味があるのかな」
「たぶん」
そのとき、彼女のスマートフォンが震えた。
二人で画面を見る。
新しいメッセージだった。
送信者は、また知らない番号。
『箱を探しているなら、駅のロッカーを見て。』
彼は思わず立ち上がった。
「駅のロッカー?」
「……行ってみる?」
「うん」
二人は駅へ向かった。
古いロッカーが並ぶ場所まで来る。
「どれ?」
彼女が聞く。
メッセージには番号が書かれていない。
ただ、
『二人が最初に会った日の数字』
とだけ続いていた。
彼は立ち止まった。
「最初に会った日……」
オンラインで初めて話した日。
けれど、それは二人が覚えている限りでは、
事故のあとだった。
「待って」
彼女が言った。
「私たちが初めて話した日じゃなくて……」
彼女は、自分のスマートフォンを開いた。
「私が昔残してたメモに、変なのがある」
そこには、日付だけが書かれていた。
二人がまだ出会う前の日付。
彼はそれを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
「……これ」
その数字を見つめる。
どこかで見たことがある。
事故の日。
病院の記録。
写真。
全部を頭の中で重ねていく。
そして、ようやく気づいた。
「この日……事故の前日だ」
彼女も顔を上げた。
二人はロッカーを見渡す。
その数字と同じ番号のロッカーが、
一つだけ残っていた。
「……開けてみよう」
彼が鍵穴に手を伸ばす。
けれど、鍵はかかっていなかった。
ゆっくり扉を開ける。
中には何もない。
「……空っぽ?」
彼女が覗き込む。
確かに、箱はなかった。
ただ、奥の壁に小さな紙が貼られていた。
彼が剥がして、裏返す。
そこには短い文字が書かれていた。
『箱はもうない。』
その下に、もう一行。
『でも、名前なら残ってる。』
彼はその文字を見つめた。
そして紙の端に書かれた名前を見た瞬間――
頭の中に、聞いたことのないはずの名前が響いた。
一度だけ。
はっきりと。
けれど、口に出そうとした瞬間、
その名前はまた記憶の奥へ消えていった。
コメント
1件
「名前なら残ってる」って一文、めちゃくちゃ心臓に来ましたね……。ロッカーが空っぽだった時の絶望感と、そこからまた別の手がかりが出てくる構成が巧みで、ページをめくる手が止まらなかったです。二人が同時に同じ声を聞くシーンも、絆の深さを感じさせる良い伏線になってる。続きでその名前がどうつながるのか、気になって仕方ないです!
341
まくら
135
みおん
5,265
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