テラーノベル
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ある日の夕暮れ。王邸の片隅、今は二人のささやかな住居となっている部屋の扉を、元貴が慌て急いで開けた。
「ひろぱ、ただいま……って、まだ寝てなきゃダメだよ!」
部屋の中央、布団から起き上がろうとしていた滉斗は、その動きを止めて力なく枕に沈んだ。
最強の剣士、そして国の守護者。めったに体調を崩すことのない彼だったが、数日間にわたる国境付近の魔獣退治と、その後の豪雨の中での作業がたたり、珍しく高熱を出して寝込んでいたのだ。
「……元貴、か。すまない、少し、身体が重いんだ」
普段の鋭い声とは似ても似つかない、熱を帯びた掠れた声。
元貴は手際よく水桶を替え、濡らした手ぬぐいを滉斗の額に乗せた。かつて王として「慈愛」の術を振るっていたその手は、今や愛する夫を介抱するための、魔法よりも温かな手へと変わっている。
「術で熱を下げられればいいんだけど……。僕の術は『治癒』であって、病気を治すのは君自身の体力なんだから。今は大人しくしてて」
元貴が立ち上がろうとすると、不意に、熱で赤らんだ滉斗の手が、元貴の衣の裾を力なく、けれど離さないという意思を込めて掴んだ。
「……どこへ行く」
その瞳は、いつもの冷徹な剣士の面影はなく、まるで雨に濡れた仔犬のように、ひどく心細げに元貴を見上げていた。
「え? お粥を作ってこようと思って。すぐ戻るよ」
「いらない。……ここにいろ」
滉斗はそのまま、掴んでいた元貴の手を自分の頬へと引き寄せた。高熱のせいで、普段は冬の泉のように冷たい彼の肌が、今は驚くほど熱い。
「ひろぱ……? 君、本当に熱に浮かされてるね」
「うるさい。……元貴が隣にいないと、寒いんだ。氷術の使い手の俺が、寒くて死にそうだなんて、笑えるだろう」
自嘲気味に呟きながら、滉斗は元貴の手のひらに何度も額を擦り寄せる。
そのあまりの甘えぶりに、元貴は困ったように、けれど愛しさが溢れて止まらないといった表情で、空いた方の手で彼の髪を優しく撫でた。
「笑わないよ。……よしよし、じゃあお粥は後回しだね。ずっとここにいるから」
元貴が布団の端に腰を下ろすと、滉斗はさらに体を寄せ、元貴の腰に腕を回して抱きついた。最強の剣士が、ただ一人の男として、最愛の人にすべてを委ねている瞬間。
「……元貴は、いい匂いがするな。あの日の、椿の匂いだ」
「ふふ、そうかな。……ねえ、覚えてる? 子供の頃も、一度だけこうやって僕がひろぱを看病したこと」
「……覚えてない。俺の記憶にあるのは、お前に『結婚しよう』と言われて、心臓が止まりそうになったことだけだ」
熱のせいか、普段なら絶対に口にしないような台詞が、次々と滉斗の唇からこぼれ落ちる。
元貴は顔を赤らめながらも、熱でうわ言のように愛を囁く夫を、子守唄を歌うように抱きしめ直した。
「……ひろぱ、大好きだよ」
「……俺の方が、ずっと……愛してる」
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
翡翠の守り袋が二人の枕元で静かに光り、月の光が窓から差し込む。
翌朝、熱がすっかり下がった滉斗が、昨夜の自分の言動を思い出して顔を真っ赤にし、一日中剣の素振りに没頭することになるのだが。
それは、二人だけが知る、甘く溶けゆく夜の密やかな記憶。
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