スーツケースをガラガラ引きながら、エントランスの扉を勢いよく開ける少女。その勢いとは裏腹に、後ろでドアが半分閉まり、スーツケースがガコンと挟まって「きゃあ♡♡」と跳ねるのも、いつも通りのワンシーン。 Lはソファの上で軽く膝を抱えて座っていたが、足元のカーペットが沈む音に反応して、わずかに顔を上げる。
「……来ましたね」
来ると分かっていた。だから驚きはない。
──ただ、覚悟をしていた。
この空間に突如として放たれる“飴細工みたいな高濃度の甘さ”を受け止めるには、精神の防御壁をいくつも張る必要がある。
ゆっくりと首を巡らせて振り返ると──
「Lぅっ!♡♡」
片手に大きなうさぎのぬいぐるみをもぎゅもぎゅに抱きしめ、もう片方の手にはおみやげのような紙袋。そして足元には──無惨にも横倒しになったスーツケース。
髪は旅の疲れも感じさせず、白くふわふわのまま、ハーフツインの先がくるくると揺れている。
──そして、次の瞬間。
「Lぅぅ〜〜〜っ♡♡♡♡♡」
シキはスーツケースを完全に放ったらかして、ぴょんっと軽い音を立てて駆け出した。
チャックの開いたキャリーケースは、ぺたりとその場に倒れ込み、中からぬいぐるみの足や、レースのついたハート柄のトップスがちらっと覗いている。
が、そんなことは今この瞬間、まったくどうでもいい。
Lの前に飛び込み、その細い腕で思い切り──
「ぎゅ〜〜〜〜っ♡♡♡」
シキは両腕をこれでもかと回し込んで、うさぎもろとも押しつける。
わずかに甘い匂い。体温。圧力。
Lの背筋がぴしりと固まる。
「……あの、落ち着いてください」
Lの声は冷静だが、明らかに対応モードへと切り替わっている。
だが──その背後。
「……まったく、困ったものですね……」
スーツケースを拾い上げる影がある。
──ワタリだ。
しかしその姿は普段の完璧な執事とはかけ離れていた。
服はくしゃくしゃ、ネクタイは半分ほど曲がり、ジャケットの袖にはどこかで踏みつけられたような跡。
眼鏡も斜めになり、片方のレンズにはなぜか「うさぎのシール」が貼られている。
Lがちらりと視線を向ける。
「……どうしましたか、ワタリ」
ワタリはスーツケースを直しながら、控えめに咳払いした。
「──少々、飛行機で“事案”がありまして」
「……この子と?」
「はい。……非常に濃密な七時間でした」
Lは言葉を失い、ただケーキに手を伸ばしかけた指を止めた。
「何があったんですか」
ワタリは眼鏡をそっと押し上げ、語り始めた。
「離陸から三時間ほど経過した頃のことです。シキさんはぬいぐるみを膝に並べて、“お名前おしえて♡♡”とそれぞれに自己紹介を始めておりました。わたくしは見守っておりましたが……」
ワタリの言葉が、わずかに沈む。
「──隣の乗客の方が、唐突に笑いながらこう申しました。“いくつまでぬいぐるみ持ってんだよ”と」
Lは一度動きを止めた。
──嫌な予感がした。
「……シキさんは?」
「……即座に、泣き出しました」
ぴくり、とLの目元が動く。
「肩を震わせて、口に手を当てながら、“ぅうっ……っ……ぐす……♡♡”と予兆を見せたかと思えば、数秒後には“うえええぇぇぇん”と、機内全体に響き渡る声で絶叫──」
「……」
「膝の上のうさぎには“らびぃちゃん”、くまには“まもるくん”、もう一体のぬいぐるみは“びぃびぃ”というお名前でして……」
「……?」
「ちなみに“びぃびぃ”は、“Lがくれた設定♡♡”だそうです」
「……おぼえがありません」
「わたしも、ありません」
ワタリはそう言いながらも、どこか慈しむような眼差しで“びぃびぃ”を撫でている。
「それで、乗客の方は謝罪したのですか?」
「ええ。“なんかごめん”と頭をかいておられましたが……シキさんは涙目のまま、“……ゆるちませんっ♡♡”と、クッキーを投げつけ──」
「投げた?」
「──命中いたしました。……額に」
Lは、額を押さえた。まるで自分が打たれたかのように。
「……その方は、大丈夫でしたか?」
「大丈夫ではありませんでした。“もう席変えて”とクレームを出され、強制移動となりました」
Lの指先がぴくりと震えた。
つまり、この男は──あの“甘味爆弾”と、七時間程共にしたということになる。
「それ以降も、シキさんは“びぃびぃ〜♡♡”と延々語りかけており、わたしはそのすべてに返事を返し……」
「返してたんですか」
「はい。“びぃびぃ”の役として」
Lはそっとケーキを皿ごと遠ざけた。
──もう甘味は、足りている。
むしろ飽和している。ロンドンの空より重い甘さだ。
「お疲れ様でした」
Lがぽつりと呟いたその言葉には、明確な敬意が込められていた。
そしてその敬意のすべては──ワタリが受けるべき“精神的ダメージ”に対して、である。
ワタリは一礼しつつ、まだ心ここにあらずな様子で眼鏡を拭いていた。
「ねぇ、L〜!」
シキがLを揺らすと、片手に下げていたお土産を渡した。
「はいっ♡おみやげぇ〜〜♡」
ぴょこんっと差し出されたのは、分厚い一冊の雑誌。
表紙には──
きらっきらの笑顔の小学生モデルたちと、カラフルすぎるロゴ。
『きらきら☆キューティーおともだち♪ 12月号♡』
モデルたちの笑顔が炸裂し、ピンク・ミント・レモンカラーが狂ったように踊るデザイン。
Lは、それを受け取った瞬間──
手元の“視覚情報”と、脳内の“現実処理回路”が衝突して、フリーズした。
「……これは……」
Lは数秒沈黙したままページをめくらず、ただ表紙を見つめていた。
指先の動きは完全に止まり、目だけが表紙のロゴを三度見し、やがて──
「……色が……うるさいですね」
「うふふ♡♡かわいくない?♡」
「対象年齢に……あってないです」
Lが辛うじて冷静さを保った声で言うと、シキはきょとんとした顔でLを見上げた。
「え? でもLって……年齢、不詳でしょ?」
「……まあ、そうですが……」
「なら、“3歳でもおかしくない”ってことだよね?」
「……」
Lの口が、少しだけ開いた。
しかし──何も言えない
Lは確かに“年齢を公表していない”。
それを逆手に取られるという未来は、想定していたようで、想定していなかった。
「“年齢不詳”ってことは、“年齢不定”で、“選択可能”ってことだよね?♡だったらシキは、Lを3歳にする♡“Lたん3さい♡♡」
Lは沈黙したまま、雑誌の表紙をそっと伏せた。
「……なんという詭弁……」
「詭弁じゃないよぉ♡♡事実だよ♡♡“Lはたぶん生まれてまだ3年”♡♡生まれたてほやほや!ふふ♡♡」
「……証明できますか」
「逆に、否定できる証拠ある?♡♡」
「……ッ……!」
Lの理性が、ほんの一瞬ぐらついた。
ワタリが後ろからフォローする。
「Lは……明らかに……成人男性に見えるでしょう。身長も体格も」
「ちがうよ!そう“見えてる”だけで、“中身は3さい”なの♡♡」
「そんな理屈が……!」
「あるよ♡……Lには、“ぷりきあになりたい3さいのこころ”があるの♡♡♡♡」
「あるわけが──」
「ほらっ♡♡Lたん、大人なら“らぶぴょん♡”って言って♡♡♡♡それで証明されるの♡♡♡♡♡」
Lはぎり、と奥歯を噛んだ。
ここで言えば──終わる。
でも、言わなければシキの中で「L=3歳」の設定が永遠に固定される。
逃げ道は、ない。
そしてその時。
「……ワタリ」
「はい」
「私は……本当に、3歳に見えますか」
「……見えませんが、言い返せる確証も……ございません」
Lは沈黙したまま、遠くの壁を見つめた。
──その横顔には、もはや“敗者”の陰りすら漂っていた。
理屈の隙をついた“3歳論”に反論できず、だが認めるわけにもいかず、脳内は嵐。
その時。
Lが、ふと視線を横に向けた。
ゆっくりと、問いを放つ。
「では、シキ」
「ん〜?♡♡」
「後ろにいる“おじいちゃん(ワタリ)”は、いくつに見えますか」
「……」
ワタリがぴたりと動きを止めた。
シキがくるりと振り返る。
「ん〜〜〜〜〜〜♡♡♡♡」
シキはワタリをじーーーーーーっと見つめた。
頭の先から、眼鏡の角度、ネクタイの曲がり、ちょっと疲れた膝の角度に至るまでをスキャン。
「……Lたんが3さいならぁ……♡♡♡」
ワタリが、ほんの少しだけ身構える。
「……“おじいちゃん”は──192さい♡♡」
「ぶっ」
Lが、抑えきれずに笑いを漏らす。
ワタリが微かに眉を動かした。
「……192……?」
「うん♡そんけーできる“せんにん”だよ♡♡しかも、シキは知ってるもん♡♡ワタリってば、きっと“ずっと前からお家にいた”んだよね♡♡」
ワタリが、少し困ったように笑う。
「まあ……長いこと、あそこにはいましたが──」
「やっぱり!♡じいじ動かないし、優しいし、♡♡なんか、こう……願い事とか、きいてくれそう♡♡」
Lは吹き出した。完全に。
「ふっ……ふはっ……く、くふっ……!」
ワタリは目を閉じたまま、深呼吸をした。
「……つまり私は、“祈られる側”だったわけですね」
「うん♡♡“Lがぷりきあになれますように”ってお願いするの♡♡」
Lはもはやケーキどころではない。
紅茶のカップを手にしても、それがわずかに震える。
「……ワタリ、わたしたちは今、明確に“幼児”と“地蔵”という関係にあるらしいです」
「……分かりました。せめて石像ではなく、生身でいることを心がけます」
「今度お供え物するね♡♡」
「……」
Lは、そっと視線を落とし──
ぐっ……と紅茶を置きかけて──
「ふ……ふはっ……ははっ……ふふっ、くっ……!」
ついに、吹き出した。
笑いを噛み殺そうとしたがもう無理だった。
肩が震え、額を手で覆って、椅子ごと小さくうずくまるL。
その笑い声は、普段の冷徹な知性からは想像できないほど、あたたかく、苦しげで、可笑しくて。
「L〜〜〜♡♡笑ったぁ♡♡にこにこポイント、+100なの♡♡♡♡」
「……っ……う、うるさい……!」
Lの右手が、ふいに動く。
器用な手つきで人差し指と親指を弾く構え。
そう、それは──L式“理不尽デコピン”。
「へ?」
ぺしんっ。
Lの指が、シキの額に軽く命中した。
衝撃は最小限、しかし“やられた感”は最大級。
「きゃっ!?!」
シキはその場で頭を押さえて、ふらふら、くるくると回る。
うさぎのぬいぐるみが床に転がり、リボンが揺れた。
「ばたんきゅう♡」
Lは紅茶を一口飲み、落ち着いた声で言った。
「Lたん3歳の罰です」
──これは、“探偵Lたん”にベッタリなプリンセスの物語。
ルールはひとつ、「好きって気持ちを、ちゃんと伝えること」──
世界の謎も、心の謎も、解けないくらい甘くてとろける、ちょっぴり痛くて、いっぱい愛しい、お菓子よりも甘い推理劇が──いま、はじまる。
♬♬♬
Lの部屋には、電気の明かりはなく、カーテンも閉め切られていた。光源は、机に置かれたモニターの明滅だけ。
それでも、シキの目は慣れている。うさぎのぬいぐるみを抱きしめたまま、そっと襖を開けた。
「えるぅ〜……あしょぼ♡」
しかし、部屋の空気は明らかにそれを拒んでいた。
壁一面に張られた資料。写真、地図、数列、そして監視カメラの映像。Lは椅子の上で例の姿勢のまま、指先でスプーンを弄んでいる。
──ピッ。
モニターから、誰かの呻き声がした。どこかの監視映像だ。
「これは……違う。第三容疑者はこの時点で建物に入っていない……」
「……える……?」
シキの声に、Lは応えなかった。
うさぎの耳を、ぎゅっと掴んだまま立ち尽くすシキ。少しだけ唇を尖らせて、でも泣くほどではない。こういう時のLが、“世界の一番難しい謎”と格闘していることを、シキはもう知っていた。
でも──
「この子が、Lと遊びたいって……」
ぬいぐるみの顔をLの視界に差し出してみる。
Lは一瞬、目線をずらしただけだった。スプーンを回し続けながら、まるで人形が映り込んだ監視映像を見るように。
「シキさん。15分後、話しかけてもいいです」
それは、Lなりの「ちょっとだけ待ってて」の合図。
けれど──
「じゃあ、あと14分59秒、いい子してる♡」
シキはもう、ぴょこん、とぬいぐるみと一緒に敬礼のポーズ。
そして大人しく──Lのデスク脇、カーペットの上にぺたんと座り込んだ。
ぬいぐるみを抱え、脚をぶらぶら揺らしながら、ひとまず静かにしてみる。
Lはまだ何も言わないけれど、それも分かってる。“ちゃんと終わったら、自分の方から声をかけてくれる”ってこと、シキは、ちゃんと知ってるから。
──だけど。
わずか2分後。
「……」
ぴくり、と脚の動きが止まり、うさぎのぬいぐるみを抱きしめる腕に、ゆっくりと力が入る。
「……んぅ……」
半開きの口元から、ゆるんだ息。
ついで、ツインテールの髪が、傾いた頭と一緒に流れ落ちて、カーペットの上に──コテン、と音を立てる。
シキは、あと13分を待たずして、床でそのままおやすみになった。
──1時間後。
「……ふわぁ……」
まつ毛がゆるく揺れ、白い指先が目元をこすった。
カーペットに頬をつけたまま、シキはとろりと目を開ける。
さきほどまで夢の中で遊んでいたらしく、ほわんとした顔でぼんやりと天井を見上げていたが──すぐに、すこし眉を寄せた。
「……ん。L……?」
相変わらず、前のめりの姿勢でパソコンと向き合っている。
シキは小さくあくびをひとつ。
(……まだ終わってないの……?)
そんな思考をよそに、Lの声が少しだけ強まった。
L:“That’s exactly why I’m saying it’s inadmissible as evidence. The problem is that the FBI confiscated the fingerprints left at the scene without proper authorization.”(だからこそ、証拠として認められないと言っているんです。問題は、FBIが現場に残された指紋を正当な許可なしに押収したことです)
FBI Agent 1:“L, we acted under the authority granted by the Department of Justice.”(L、我々は司法省から与えられた権限のもとで動いたのです)
L:“I’ve already returned three formal rejections regarding the deficiencies in your statement of jurisdiction. Haven’t you reviewed them?”(そちらの管轄権に関する声明の不備について、すでに正式な拒否通知を3通返送しています。まだご確認いただいていないのですか?)
FBI Agent 2:“Oh, for God’s sake—are we really doing this again?”(ああもう、勘弁してくれ……またその話か?)
「……」
シキは目をぱちくりさせた。
たぶん、大人たちにとってはすごく重要な話をしてるんだろうけど──
「……ふえぇ」
つまらなかった。
うさぎのぬいぐるみを両手に抱きしめ直すと、彼女はふにゃりと顔を歪め、ふらふらと立ち上がる。
そして、小さく宣言する。
「……じゃあ……シキは、ひとりで、あそびますっ」
それはもう、ぐずった子供のような、ちょっぴり拗ねた声だった。
彼女はぬいぐるみをちょこちょこと歩かせながら、床の上で遊びはじめる。ぴょんぴょんと跳ねたり、おしゃべりさせたり、二匹目を登場させておままごとを始めたり──誰に見せるでもなく、でもちゃんと誰かに見ていてほしいような、そんな“ひとり遊び”だった。
──その様子を、見ていたLは、やがて立ち上がると、シキの腰に手を添えて、ひょいと軽々と抱き上げる。
「え、ちょ、え……っ」
戸惑うシキをそのまま抱えたまま、Lは椅子に戻り、いつもの座り方を取る。
そしてその膝の間、Lの独特なあぐらの中に、すっぽりとシキを座らせた。背中はLの胸に預けられ、腕が左右からすとんと添えられる。
ぬいぐるみも一緒に抱きしめるように──まるでそれが、世界で一番安全な場所であるかのように。
シキは一瞬驚いた表情をしたが、すぐにほわっと目元をゆるめた。
『──ですが、L。これはあくまでアメリカの領分です。あなたの権限を逸脱している』
画面の向こう、FBI本部の副局長が憮然とした顔で言い放つ。
『“L”であれば何をしても許されるとでも?』
Lは表情を変えずに画面を見つめていた。膝の上では、シキが小さく丸まり、両手でぬいぐるみを抱いている。Lの指がその白髪を梳くように撫でていた。
「私が言っているのは、管轄の問題ではありません。これは命に関わる脅威です。時限性がある以上、最も早く正確に判断できる者が動くべきだと、私はそう思います」
『だからって──』
別の男が苛立った口調で遮る。どうやら現場側の捜査官らしい。
『FBIの報告書を無断で閲覧し、勝手にデータを改ざんした上に、こっちのエージェントに“指示”まで送ってきたって、どういう神経してるんだ?』
『L。あなたは、正直言って、気味が悪い』
その言葉に、シキがぴくりと反応し、Lの服の裾をぎゅっと握る。
しかしLは、相変わらずの無表情で答えた。
「“私を気味が悪いと思うこと”と、“私の推理の正しさ”は、別問題です」
『だったらその正しさとやらを、証明してみせろよ』
最初に怒鳴った捜査官が吐き捨てるように言った。
『テロの可能性があるのはわかってる。だがな、君は現場にいない。机の前でお菓子を食ってる奴に、現場の何がわかるってんだ』
その瞬間、Lの手が止まった。撫でていた指が、ぴたりと。
「……」
数秒の沈黙。
「では逆に、あなたが今そこにいて、何がわかっていますか」
冷静に、しかし低く、まっすぐに返された言葉は、ディスプレイの向こうの空気を凍らせた。
「私は今、21通の通報記録と、53の市民映像から得られた情報、さらに3時間前にあなたの部下が通話した音声を保有しています。それらの矛盾点と、確率的異常性について指摘しただけです。あなた方の誰も気づいていないことを、すでに私は提出しているはずですが?」
その冷淡な声音に、言葉を失うFBIの面々。
「それでもなお、“私のほうが机上で遊んでいる”と仰るのであれば──それは、あなた方の傲慢さの証明でしょう」
シキはそっと振り返り、Lの横顔を見上げた。
──冷たいのに、凛としている。
その背中に預けられたまま、シキはぎゅっとぬいぐるみを抱きしめた。
画面の向こうの沈黙が数秒続いたのち、ようやく重苦しい声で副局長が言った。
「……分かった。君の推理を、正式にFBI本部で検討する」
「ありがとうございます」
Lは短く礼を述べ、接続を切る。
通信が終了すると、空気が一気に柔らかくなる。
「L……だいじょうぶ……?」
小さく尋ねると、Lはようやく肩を落とし、シキの頭に顎を乗せるようにして呟いた。
「シキさん。あなたは……どう思いましたか、今のやり取り」
シキは、ぬいぐるみをぎゅっと抱いたまま、ほんの一拍だけ考えた。
その瞳は、年相応どころか──世界の裏側を覗き込むように静かで、鋭かった。
そして。
「……あの人たち、Lの“頭の高さ”を知らないだけだよ」
Lの指が、わずかに止まった。
シキは続ける。
声は甘くても、その内容は容赦がなかった。
「自分の“目線”が正しいって思ってるひとって──自分より“高い”とこにいる人の言葉が聞こえないんだよ。見下されてると思うから。わかんないの。上からは全部見えてるのにね」
Lは黙ってその言葉を受け止めた。
少女の温もりを抱えたまま、目だけが静かに伏せられる。
「だから、Lの言葉は通じなかったんだよ。まだその高さに登れてないひとたちには」
Lの目が、ゆっくりと伏せられる。
いつものような無表情ではない。
何かを確かめるように、自分の中の心を撫でるように──その言葉の余韻に、浸っていた。
「……シキさんは、可愛いだけの子じゃありませんね」
Lの胸元でぬくもりを抱えながら、シキはにっこりと笑った。
──けれど、その笑みはどこか誇らしげで、甘さの奥にピンと張った芯があった。
「……当たり前じゃん」
声はいつもどおりのトーンなのに、言葉だけは妙に大人びていて。
うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱き直しながら、ドヤドヤと胸を張る。
「シキも、ワイミーズハウスのひとりなんだからっ♡」
Lは、目を伏せたまま微かに口角を上げた。
──そうだ。
この子は、ただの甘えん坊でも、お姫さまごっこ好きな少女でもない。
世界中の“特別な子供たち”が集められた場所で、唯一無二の“異色”として選ばれた、純粋すぎる天才。
「……失礼しました」
Lはそっと顎に手を添えたまま、ぬいぐるみを抱きしめて得意げな少女を見つめた。
そして──ようやく、口を開いた。
「……あなたは、何が得意なんですか?」
シキはぱちぱちと目を瞬かせると、ちょっとだけ首を傾げ、赤い瞳でLをじっと見つめた。
まるで、なにを答えるべきか吟味するように。
「えっとねぇ……♡」
言葉を濁すように、うさぎの耳を撫でながら視線を泳がせる。それは、恥ずかしがっているのでも、黙っているのでもなかった。
「……しんりがく♡」
シキは、照れるように小さな声で答えた。
「うさぎさんにも、心があるの」
言って、またぬいぐるみを抱きしめる。
Lはその様子を見ながら、わずかに目を細めた。
この子は、ただの遊びで言っているのではない。“そう見えるように”言葉を選び、“誤魔化すように”演技している。
──本物の天才だ。
心理を、幼い言葉で操っている。
「心理学、って言葉は、ほんとはあんまり好きじゃないの」
「……理由を聞いても?」
「“学問”って言ったら、お勉強になっちゃう。シキのは、“遊び”だよ♡」
──天才という言葉では足りない。
もはやそれは、“異能”とすら呼べた。
Lはコーヒーに砂糖を足した。
彼女の前では、思考すら見透かされる気がして。
「……おもしろいです、シキさん」
言葉は一言だけ。だがそれは、Lなりの最大級の“興味”だった。
「ねぇ、Lってさ──」
ふいに、その声が落ちた。
「女の子に、ほめられたことってある?」
Lは、手を止めた。スプーンがカップに当たり、小さく澄んだ音を立てる。
「……どうして、そんなことを」
「ふふ♡やっぱり、慣れてないんだ……♡」
シキは、小首を傾げてくすっと笑う。口調は甘く、けれどその裏に仕掛けがある。
「心理学、ってさ。“相手の“反応”がもらえるから楽しいんだよね?」
その瞬間。シキは指先で、Lの手元の砂糖壺を、そっと彼の側へと寄せた。
「こうやって、ちょっとずつ……“甘やかして”いくの♡」
赤い瞳が、Lの黒い目を覗き込む。視線が交錯する。空気が、わずかに熱を帯びる。
「どんなに頭が良くても、心はさ、予想通りになんか動かないんだよ? だから、予想外のこと、してあげる」
ぴとり。シキはLの指先に、自分の指をそっと重ねた。
「ほら、今──“心拍数”上がった♡」
Lは、コーヒーを飲むふりをして、顔を逸らす。しかしその耳の先が、わずかに赤い。
「……遊んでますね、シキさん」
「うん。心理学って、遊びだもん♡」
得意げに笑う彼女は、まるで無邪気な子供のようで。だがLにはわかっていた。
──これは、計算された“無邪気”だ。
「次は、どんな“反応”がほしい?」
小悪魔のような瞳。甘い声。毒のような可愛さ。
Lの手の中のスプーンが、ぐにゃりと曲がった。
「ねぇ、L──」
シキは声のトーンを少しだけ落とした。子供のような高音から、わずかにだけ大人びた、艶を含んだ声色へ。
「女の子の“魅力”に……溺れてみる?」
Lの手が、ぴたりと止まった。
問い返す暇もなく、シキはすっと彼に近づく。ほんの数十センチ。境界線を破るように、身体を傾けて。
「Lは、いつも“正しさ”ばっかり見てるけど……それって、“可愛いもの”を知らない顔だよね?」
彼女はふわりと笑う。赤い瞳に、星のような光が揺れていた。
「ふふ……Lはさ、こういうの、苦手でしょ?♡」
小さな手が、そっとLの服の裾に触れる。わずかに引かれるその感触に、Lは反射的に椅子をずらしたが、逃げ切れなかった。
「ほら♡……反応♡」
耳元に吐息がかかる距離。
Lは、表情を変えずに応じようとしたが──指がかすかに震えていた。
「……あなたは、危険な女の子ですね」
「知ってる♡でも、Lが引っかかるかどうかは、別でしょ?」
目が合う。その瞬間、Lの喉が僅かに鳴った。ごく、という小さな音。コーヒーでも飲み下したい場面だが、すでに手元のカップは空だった。
「……今のは、心理戦ですか?」
「ん〜〜、心理“誘惑”かな♡」
ぴとり、と指を自分の唇に添えながら、シキはウインクを一つ。
「ねぇ、L。溺れちゃいそう、でしょ?」
小さく囁かれたその一言は、爆弾だった。
赤い瞳が潤み、白い髪が光を撫でるように揺れる。声は蜜のように甘く、仕草は子猫のように柔らかい。そこに、狙い澄ました毒があることに──Lは気づいているのに、視線を逸らせなかった。
「……どお? “お兄さん”」
シキは、ほんの少しだけ口角を上げた。
「──“僕”が好きになった?」
Lが完全にフリーズする。
──“僕”。
甘い錯覚が、一瞬で引き裂かれる。その言葉に宿る、“彼女”ではない響き。ふわふわとした可愛さの裏に、まさかの一撃が潜んでいた。
「……僕?」
Lは、その言葉を繰り返した。まるで理解できない概念を前にした探偵のように、わずかに首を傾げ、真っ直ぐにシキを見つめる。
その目には、困惑でも嘲笑でもなく、ただ“真理を知ろうとする”好奇の色が宿っていた。
シキは、くすっと笑う。
「うん、“僕”。おかしい? でもね──」
彼女──いや、“彼”は、指先でふわりと髪をすくいながら、楽しそうに続ける。
「僕、男の子なんだよね〜♡」
その言葉は、甘い声と一緒に落とされた“爆弾”だった。
「っ!?」
Lの目が、ほんの一瞬だけ大きく見開かれる。
シキの見た目も、声も、仕草も、全てが“完璧なまでの少女”で構築されていた。
なのに、その根幹が音もなく裏切られた。
「……性別詐称、ですか?」
「え〜、そんな難しい言い方しちゃう?♡」
指を口元に当てながら、シキは無邪気に笑う。
「可愛いけりゃ、男の子でもいいじゃん。ね、L?」
Lは、絶句していた。
そしてそれを見たシキは、楽しそうに唇を尖らせて、首をかしげる。
「ねぇL、“男の子”だって、こんなに可愛いんだよ?」
小さな指がLの頬をなぞる。
シキは、そっとLの顎を指で取る。
大きな赤い瞳が、まっすぐに彼の黒い瞳を覗き込む。
ほんの一瞬の間。
甘く危うい静寂。
「……いただきます♡」
そう囁いた瞬間、シキはLの唇を奪った。
「ちゅっ♡」という可愛らしい音の先に続くのは、とろけるように深く、舌先が忍び込むような──甘い、甘い、ディープキス。
まるで砂糖の塊を口移しされるように、唇の隙間から、舌先で、甘さと熱が流し込まれていく。
息すら奪われるような一瞬。
それは、感情の臨界を越えた接触だった。
ようやく唇が離れたとき、シキはLの唇をぺろっと舐めて、満足げに微笑んだ。
「ふふ……甘さ足りてた?」
Lは呼吸を整えることも忘れ、ぽつりと呟いた。
「……致死量です」
シキはゆっくりと、いたずらな笑み。
「……Lの“ファーストラブ”、僕で決定だね♡」
声も仕草も完璧に甘く、そして完全に勝者の顔。
「ねぇ──お兄さん♡」
シキは囁くように、けれど確信犯の声で言った。
白い指先がLのシャツに触れ、赤い瞳が潤んだように揺れる。唇は甘くゆがんだまま、さらなる言葉を浴びせかける。
「“僕”に……オーバードーズしちゃいなよ♡」
Lの思考は、ついに沈黙した。
論理も倫理も、すべて溶かされていく。
淑やかに、しかし確実に。
──彼の心はもう、シキという“中毒”から抜け出せない。
そしてLは、震えるような声で一言だけ、こう呟いた。
「……こ、これは……犯罪級です」
Lの頭脳は、いまやただの飾りだった。
──そして、たった一言だけ、絞り出すように呟いた。
「……完敗です」
彼の声には敗北の苦味と──ほんの僅かな、甘さが滲んでいた。
おまけ
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