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「ベルニージュさん!? どうして、ですか? いったい、何を」
ベルニージュは嫌味も含みもない春先の野の花のような微笑みを浮かべる。
「お邪魔してるよ。ユカリ。部屋の外から何度も呼びかけたんだけどね。返事がないから入っちゃった」
ユカリは扉の方をちらと見る。今も確かに閂が下ろしてある。つまり窓から入って来たというわけだ。それほど身軽そうには見えないが。
ユカリは手を差し出し、凶器を持つ子供を諭すように言う。「それを渡してください、こちらに」
「はい、どうぞ」ベルニージュは『我が奥義書』を閉じ、ユカリの方へと差し出す。そうしてあっさりとユカリに魔導書が返ってきた。「ごめんね。とっても気になっちゃって、勝手に読んじゃった。読めなかったけど」
もう一つの魔導書『咒詩編』は机の上に置いたままだった。
これが何か知らないのだろうか? というユカリの希望的観測は直ぐに消え去る。
「それって、いわゆる魔導書だよね」ベルニージュは感心したように言う。「それも噂に名高い完成された魔導書。まさか生きている内にお目にかかれるとは思っても見なかったけど。違う?」
「さあ、どうでしょう」と言ってユカリは目をそらし、再びベルニージュをじろりと見る。「ベルニージュさんは完成された魔導書を見たことがあるんですか?」
ベルニージュは寝台に座ったまま、後ろに両腕で手をついてもたれかかるように体を支える。まるで自室で寛ぐかのような緊張感のない振る舞いだ。
「今、見ているそれを除けば、無いね。少なくとも記憶を失った後は、ね。記憶喪失って話はしたっけ? したよね」ユカリの返事を待たずにベルニージュは続ける。「でも、色々な想像図は見たことあるよ。大きいのとか、光ってるのとか、透き通っているのとか、生きているのとか。そんなすっきりした見た目の魔導書を想像した魔法使いはいなかっただろうね。でも、まあ、確信してるよ、それは魔導書だって。ユカリには悪いかな、と思ったけど……」
ベルニージュが手の甲を差し出す。ユカリが警戒していると、その手の甲に小刀のような小さな赤い炎が灯った。つまり。
「焼こうとしたんですか!?」
ユカリは庇うように魔導書を胸に抱える。
「じっくり焙ったんだけどね。見ての通り、無傷だったよ。まあ、ありとあらゆる破壊の魔法を試したって訳じゃないけど」
魔導書の代わりに、様々な種類の怒りがユカリの中で燃え上がっていた。勝手に部屋に入ったこと。勝手に魔導書を借りていたこと。勝手に魔導書に火をつけたこと。いや、他人の持ち物に勝手に火をつけようとしたこと。
しかし怒りに任せて間違った判断を下すわけにはいかない、とユカリは自分に言い聞かせ、冷静になる。完成した魔導書について多くを知っている、まだよく知らない人物を敵に回して、良いことなど何もない。単純な話、このことを他人に話され、噂になるだけでユカリにとっては大いに不利だ。
ユカリは簡素に問いかける。「一体、何が目的なんですか?」
「まだ早いけど、後で一緒に夕飯どうかなって思ってさ。まだ奢ってもらってないしね」
ベルニージュは無邪気に微笑んでそう言った。そうとしか言わなかった。しばらく待っても他に言葉は出てこなかった。
「それだけですか?」ユカリは警戒を緩めない。「そんな訳ないですよね。魔導書を前にして、部屋に勝手に忍び込む魔法使いが――」
「やっぱり魔導書なんだ」
ユカリはしくじったという表情をし、しくじったという表情をしてしまったことを後悔する。
ベルニージュはしたり顔で言う。「それに、勝手に忍び込んだことは謝ったでしょ?」
「謝ってませんよ。魔導書を勝手に読んでいたことは謝ってましたけど」
「分かったってば。勝手に部屋に入ったこともごめんさい」そう言ってベルニージュは深々とお辞儀する。「もちろん一介の魔法使いとして魔導書にはとても興味があるけど、別にどうこうしないよ。それ、ユカリのでしょう? 私のじゃないもの」
「勝手に読んでたのに」
「それは謝ったでしょ?」
「それは謝ってましたけど」
ベルニージュは悪気のない微笑みを浮かべ、膝を伸ばす。
「ちょっとした好奇心だってば、それこそ魔法使いなんだもの。魔導書について知りたいって思うのは当然でしょ? 別に盗むつもりも奪うつもりもない。ユカリが今までに出会ってきた魔法使いはみんな君から魔導書を奪おうとしたの?」
ベルニージュの紅の瞳に見つめられ、つい目をそらしてしまう。
「そういう訳では、ないですけど」
「じゃあ、ワタシのことも信じてよ、ってのはさすがに虫が良いか」ベルニージュは勢いよく寝台から立ち上がる。「とにかく今は退散するよ。夕食を一緒にとってくれそうにはないし」
扉の閂を外すベルニージュをユカリは呼び止める。
「待ってください」今、目の前にいるのは魔導書について、そして魔法についてユカリよりも多くを知っている人物だ。「色々と一旦脇に置いておくので、少し相談に乗ってくれませんか?」
「いいよ」とベルニージュは先ほどまでの諍いなど無かったかのように自然に微笑んで承諾する。「二冊と一枚の魔導書を持つ今世紀最重要人物と懇意になりたくない魔法使いなんていないよ」
合切袋の中の、かつてユーアに憑依していた羊皮紙のこともしっかり確認済らしい。が、今は文句を飲み込む。議論などしている場合ではない事態が進行しているのだ。
「とりあえずついて来てください。道すがらお話します」
旧天文台の襲撃がどうなったのか、まずはそれを確かめなくてはならない。窓から見える旧天文台の古い歴史を重ねた佇まいに陰りはなく、リトルバルムの街を静かに見守っている。何も異常はない、ように見える。
その時、入り口の扉を謙虚に叩く硬質な音がした。
「どうぞ」とベルニージュが言った。
「ベルニージュさん!?」
「ごめん、つい」と言ってベルニージュは申し訳なさそうに笑う。
小さく軋んで扉が開き、入ってきたのは、食堂までセビシャスを迎えに来た生命の喜び会の神官キーツだった。ユカリ以外に見知らぬ人物がいたせいか驚いている。しかし少しも焦っている様子はない。今さっき、襲撃を受けたばかりだというのに。
「キーツさん。なぜここに?」とユカリは問いかける。
あの事態は収まったのだろうか、と訝しむ。襲撃自体が収まったにしても被害は多いはずで、手は足りないはずだ。
キーツは神妙な表情で深々と頭を下げる。
「先程の無礼への謝罪とセビシャス様を助けていただいたことへのお礼、そしてあるお願いに参りました」
「助けたってなんのことですか?」
鳩に憑依していたことが分かっていたとでもいうのだろうか。
キーツは申し訳なさそうにして答える。「食堂での件です。不逞の輩に追われていたところを熱のない火の魔法を使って追い払っていただけたとか。知らなかったとはいえ、セビシャス様への恩人にあのような無礼な態度を取ってしまったことへの謝罪と、助けて下さったことへのお礼、そして……」
「ちょっと待ってください! そんな場合なんですか!? 天文台の襲撃はどうなったんですか!?」
ふとユカリは、先ほど鳩の姿の時、襲撃される前も後も、旧天文台の神官たちの中にキーツの姿がなかったことを思い出す。キーツは襲撃を知らないのだ。
ユカリは手短に状況を説明する。キーツの顔色がみるみる変化していく。部屋を飛び出したキーツをユカリとベルニージュは追った。