台所の土間にある瓦斯《ガス》台に火を着け、岩崎は、ヤカンで湯を沸かし始めた。
「……君、瓦斯の使い方は?」
「いいえ。ですが……おおよそ、分かりました」
西条家には、無かった瓦斯台というものも、岩崎が使っているのを見て、そう難しくないものだと月子は感じる。
岩崎は、月子の返事にそれなら、結構と言いつつも、直ぐに渋い顔をする。
「中村め!また、無駄にビブラートをかけて。音程が安定していない!どうして、譜面通り忠実に再現しようとしないのだ!!」
岩崎の剣幕に何事かと、月子は縮み上がった。
居間から、中村が奏でるバイオリンの音が流れて来ている。
恐らく、岩崎は、それについて言及しているのだろうが、怒り具合と難しい言葉に、月子は、困惑した。
「……湯が沸いたようだ。君、湯飲みと急須の用意を……」
「は、はい!」
「ああ、やはり、余所の台所は、使い勝手が違うか。君も、ずいぶん困惑しているようだが、ここは、御屋敷ではないのだから、気を楽にしなさい。それもだがね、何故、あの夫婦が、シベリアを手土産に現れたんだ?いや、やはり、中村だよな?一ノ関君がどうの言ってはいたが、それにしても。君、どう思う?」
瓦斯台から、ヤカンをおろした岩崎は、ぼやきながら、茶筒を握る月子の元へやって来た。
「そりゃ、京さんが、危なっかしくて見てられないのと、嫁さんもらったってことで、放っとけないのさ!」
勝手口で、亀屋の主人、寅吉がニカリと笑っていた。
「……また、増えた」
岩崎が、おもむろに嫌な顔をする。
「ずいぶんな言われ方だねぇ。こちとら、気を効かせて、町内に引っ越し蕎麦配っといたって言うのにさあ。京さんが、嫁さん貰ったって、話はつけといたぜ」
後は、挨拶に行きなよ、と、寅吉は手早く言うと、踵を変えそうとした。
「ち、ちょっと、待て!亀屋!町内って?!」
ヤカンを月子へ渡し、岩崎は、寅吉を追った。
「これから、新生活だろ?挨拶は、大事だろうが。まあ、顔役のところと、隣近所へ行っときゃいいさ。後のところは、蕎麦届けるついでに、俺が変わりに子細は説明してるから、省略してもかまわねぇだろ。流石に、町内全部は、無理だわ」
けど、俺は、蕎麦配ったけどよぉ、と、寅吉は、得意気に岩崎へ言ってくれる。
「……挨拶……か。まあ、そうだが、何も亀屋、町内すべてというのも……そこまでしなくとも」
「京さんは、町内中の人気だろ?おかみさん達は、男爵家の若様をほっとけないって、井戸端会議してるしよおー、ちゃんと、先に、知らせておくのが親切ってもんじゃねぇかい?」
寅吉は、戸惑う岩崎のことなど見えてない様で、じゃあ、と、帰ろうとするが、岩崎が、また、引き留めた。
「わかった!亀屋!感謝する!だから、出前用の自転車を貸してくれ!それに乗って、挨拶回りしたいっ!!」
へ?!と、裏返った声を出す寅吉へ、岩崎は、月子の足のことを説明した。
「うん!そりゃあ、そうだわ。顔役と近所って話でも、歩かなきゃいけねえ。そりゃ、自転車がいい!!よしっ!」
と、いうことで、寅吉が、また上がりこみ、月子からヤカンを奪うと、皆の茶を入れ始める。
「ここは、俺に任せて、さっさと、行きなよ!」
「ま、まて、履き物と上着を取ってくる!」
岩崎も、寅吉の勢いに押され、引っ越しの挨拶回りへ出向く気になったのか、ドタドタと台所から出て行った。
「いやはや、びっくりしたでしよ?若奥様。まあ、これが、神田界隈、庶民の暮らしでさぁ。華族様の生活とは大違いでしょ?」
寅吉は、手際く茶を入れながら、わははと、笑った。
上着を羽織り、自身の靴と月子の履き物を持って来た岩崎は、
「ああ、月子は、華族ではなく、あの西条材木店のお嬢さんだ」
「え?!それって、日本橋に豪邸を持って、木挽町の材木問屋を仕切ってる、あの、西条家?!」
うん、と、頷く岩崎に、寅吉は、
「んなもん、庶民からしたら、華族のお嬢様と同じよ!!京さん!やっぱり、男爵家に釣り合うだけは、あるねえ。さすがだ!」
そいで、そいで、と、寅吉が月子へ何か尋ねたがるが、
「あー、後にしてくれ。蕎麦が行き渡っているなら、挨拶へ早く行かねば!」
「おお!そうだ!茶は、居間へ持ってけばいいんだな?」
後は、任せた、と、岩崎は、軽く寅吉をいなして、月子へ目配せした。
これ以上、余計な詮索をされない為に、なのだろう。
急げ急げと、空々しく声をあげ、岩崎は月子と共に、町内へ挨拶に向かった。
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