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裏口になる、木戸を潜って表へ出ると、亀屋の自転車が停めてあった。
岩崎は、さっと自転車に股がり、
「君は、荷台だ。腰かけなさい」
と、月子へ言ってペダルへ足を乗せている。
「腰かけたかね?じゃあ、行くぞ。落ちないように、私に掴まりなさい」
月子は、言われた通り、岩崎の腰に手をやって、身構える。
が、何か様子がおかしかった。
岩崎が身をよじりながら、笑いを堪えている。
自転車が不安定に揺れた。
「……あの、旦那様?」
月子が落ちない様にと、懸命に掴まれば掴まるほど、岩崎は、悲鳴とも、笑いともつかない声をあげた。
「……き、君、そ、そこは、よしたまえ!ダメだ!」
我慢しきれずなのか、岩崎が、ひっと、声をあげる。
「離してくれ!くすぐったい!」
「え?!」
月子は、慌てて手を離したが、勢い体が揺れた。
荷台から、落ちそうになり、とっさに、岩崎の上着の裾を掴んだ。
急に背中を引っ張られる形になり、岩崎も、体が揺れる。
おわっ!と、叫ぶと、地面に足を付き、ハンドルを握りしめつつ、踏ん張った。
「す、すみません……」
荷台で月子は小さくなるが、岩崎は、自転車ごと倒れる所だったと、呟き、そして、月子へ意見した。
「君!脇腹は、いかんだろっ!!くすぐったくてかなわん!」
「く、くすぐったかった、のですか?」
「そうだろ?!君は平気なのか?!脇腹を触られて平気な事などあり得ない!」
「は、はぁ。そ、そうなのですね。申し訳ございません」
「分ればよろしい。私のベルトを掴みなさい。それなら大丈夫だ」
一方的に、岩崎の畳み掛けられ、月子は、面食らったが、くすぐったいと、怒る岩崎の態度に、何故か、笑いが込み上げて来た。
しかし、笑ってしまうとまた、岩崎の大声を聞くことになると思い、月子は懸命に堪えながら、言われた通りに、岩崎のベルトを掴んだ。
「よし、行くぞ」
岩崎の一声で、自転車は、軽やかに走り出す。
月子の頬を、風が切る。
少しばかり冷えてはいるが、何故か、とても心地よかった。
目の前に広がる岩崎の背中に、月子は、思わず体を預けた。
「うん、しっかり、寄りかかりなさい。大通りにでた方が近道になる。人も増える」
荷台から落ちないように、遠慮するなと、岩崎に言われ、月子は、少し恥ずかしくなる。
危なくないように、岩崎の背中を頼ったのではない。その真意が、 岩崎に伝わってしまってはと、月子は、焦りつつ、はい、と、小さく答えると、岩崎のベルトを、再度、握りしめた。
暫くすると、言葉通り、電車通りが現れた。
チリンチリンと、鈴《ベル》を鳴らして、自転車を走らせていた岩崎が、速度を落とした。
「……何事だ?」
確かに、先が騒がしかった。
人通りの問題ではなく、何かが、起こっていると想像できるほど、人の怒鳴り声が、響き渡っている。
「米騒動だ!」
野次馬らしき男達が、走り過ぎて行く。
「……まずいな。道を変えよう。ひとまず、君は降りなさい。自転車では、余計に危ない」
先では、人々が集まり、閉まっている店の扉を叩き、こじ開けようとまでしている。
それに、乗じて、大声をあげているが、もはや、それは、奇声になっていた。
「旦那様、あれは……」
「ああ、米屋だ。正しくは、米問屋なのだが、近くに食堂が多いから、小売りもしているんだが……」
先へ進まない方がいいと、岩崎は、言って、後戻りしようとした。
「大回りにはなるが、中道を抜けて行こう。あの騒動に巻き込まれては、たまらん」
と、岩崎が言うと同時に、警笛の音が聞こえた。
「巡邏の警官が来たか。ますます、離れた方がいい。巻き沿いを食うと偉い目に合うからね」
大店の米屋が、おそらく、米を売り渋り、客が怒って、暴れだしたのだろうと、岩崎が言う。
「ついでに、面白半分で、暴れているやつもいるだろうが、警官が、来たのだ、離れておくべきだ」
暴れている者達と間違われては、たまらない。岩崎は引き返そうと、月子へ言った。
「あ、あの……」
「うん、例のシベリア派兵のせいだよ。米の流通が、鈍くなって来ているのだ。田舎では、底値で買い占められて、農家の暴動が、起こってるいると聞いていたが……帝都でも、歪みがでているのか……」
岩崎は、キッと顔を引き締め、買い物は、一人では行かないようにと、月子へ言った。
「何にまきこまれるか、わからんからね。暫くは、一緒に出かけよう」
月子も、恐ろしさから言葉なく、コクンと頷いた。
「はあぁ、どこででも、あんたら二人は、いちゃつくわけだ」
突然、吐き捨てるような、物言いが、岩崎と月子へ浴びせられた。