翌日の午後。
ハルは講義を終えても、なんとなく帰る気になれなかった。
昨日のことが頭から離れない。
──クロエ。
あの夜の歌声が耳に残っている。
自分の中の何かを震わせ、掘り起こした声。
「仲間だ」なんて突然言われて、意味もわからないまま頷いてしまった。
でも、不思議と後悔はなかった。むしろ胸の奥がざわついて、落ち着かない。
気づけばハルは、海沿いの高台へ足を運んでいた。
昨夜のベンチ。クロエはそこにいなかった。
代わりに、海風にさらされて鳴るギターの弦のような余韻だけが残っていた。
「……いないのか」
落胆しかけたそのとき、遠くからギターの音が聞こえてきた。
アコースティックの乾いた響き。
下の道へ降りると、川の橋の下にクロエの姿があった。
彼女は片膝を立てて座り、タバコを口にくわえながら弦を鳴らしていた。
目を閉じ、唇をわずかに動かしながら。
そこは誰も足を止めない場所。
彼女は観客がいなくても、ただ歌っていた。
「……また会ったね」
声をかけると、クロエは片目を細めて笑った。
「やっぱ来た。あんた、そういう顔してたもん」
「ど、どういう……」
「退屈な授業より、こっちに来ちゃうタイプの顔」
茶化すように笑いながら、クロエはギターを止めた。
「で、何しに?」
「……昨日の歌、もう一度聴きたくて」
その答えにクロエは少し驚いたように瞬きをした。
やがて「いいね、それ」と呟き、またギターを構える。
だが今度は歌わなかった。
代わりに、ケースの中からもう一本のギターを取り出して差し出す。
「ほら、持って」
「えっ……?」
「仲間だろ?」
ハルは戸惑いながらも受け取った。
ずっと弾いていなかったギター。高校の頃に少し触れただけ。
指先はもう固くない。すぐに痛みが走るだろう。
「弾けるの?」
「少しだけ」
「上等。じゃあセッション」
クロエは強引にコードを鳴らし始めた。
ブルースの進行、シンプルなリズム。
ハルは恐る恐るコードを押さえ、ぎこちなく音を合わせる。
「そうそう、いいじゃん。もっと音出して!」
クロエの声に背中を押されるように、ハルは少しずつ指に力を込めた。
不思議だった。
ただの音なのに、クロエと合わせると心が解けていく。
不安や孤独が、音の中に溶けて消えていく。
曲が終わると、クロエは笑い声を上げた。
「下手だけど、いい。魂がある」
「……魂?」
「そう。技術より大事なやつ。あんた、ちゃんと音に泣いてたじゃん」
ハルは言葉を失った。
昨夜の涙まで見透かされている気がした。
「よし決まり。今日からバンドだ」
「え、ちょっと待っ──」
「嫌なら帰っていいよ。でもさ……」
クロエは夜風に髪を揺らしながら、真っ直ぐにハルを見つめた。
「一緒に音出したら、昨日より少し、生きやすい顔になってるよ」
胸が熱くなった。
クロエと一緒なら、自分も変われるかもしれない。
「……わかった。俺もやる」
「決まり!」
クロエは立ち上がり、笑顔で手を差し出した。
「バンド結成。場所も金もないけど、最高の旅が始まる」
ハルはその手を握った。
冷たくて、力強い手だった。
その瞬間、風が吹き抜けた。
空を一匹の青い蝶が横切り、街の灯の中へ消えていった。
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