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6月28日 16時25分 A県の某地方都市に聳える製薬工場、そこに隣接する研究施設では3時間前までの平穏を取り戻しつつあった。空調設備がフル回転して室内を快適に保ち、研究員たちが汗まみれになって試験薬の製造にあたっている。そんな中にあって一人の女性が不機嫌そうにしている理由は単純だった。
彼女こそが今回の騒動の原因なのだ。彼女はついさっきまで実験装置の中で、様々な色に変化し続ける液体を見つめながら結果を記録していたところだったが、突如として鳴り響いたサイレンによって仕事を切り上げさせられ、いまはその不満を口にしたところだったのだ。彼女は自分がなぜここに居なくてはならないのかわからなかった。
ただ、誰かが自分の代わりを務めてくれていることを願っている。彼女が知る由もないが、その期待はある種適中している。彼女の上司たる主任が有給休暇を取ったからだ。
警報ランプの下、コンソールの前で腕を組んでいるのが、今年40歳になる女所長だった。名前は笹谷亜希という。背広を着た姿しか知らない職員も多い。
「それで何が起こったの?!」声を荒げているのには訳があった。モニター上に映し出された数値が予想値を大きく上回っている。彼女は自分のミスだとは思っていなかった。
もちろん計器の故障や予期せぬアクシデントである可能性も考えてはいるが、どちらかと言えば後者ではないような気がした。
『原因は不明ですが、タンクが破壊されて試薬が流出しました』
マイクを通して聞こえる声はどこか間延びしているように聞こえ、語尾が上がる口調もあいまって眠気覚ましのような印象を与える。しかし、今は非常招集の最中であり本来なら誰も居眠りなんてできるはずはない。だからきっと寝ぼけているに違いない、というのが彼女に下された結論だった。
あるいは、いつもの調子で話していても周囲の人間からはそう取られてしまうほど緊迫感に欠ける声質をしているのかもしれない。
「とにかく復旧急いで! あなた達も手を貸してちょうだい!」
3Dモデリングによるシミュレーションモデルが表示され、リアルタイムの数値と折れ線グラフが表示されているが、その値は変動を続け予測できない状態に陥っている。このままでは通常業務さえおぼつかなくなる。そんな事態に陥ることはまずありえないことではあったが、最悪の状況は常に頭の片隅に置いておくべきだろう。幸いなことに被害規模はごく小さいものに抑えられているらしく人的被害の報告はまだ入っていない。
もっともこれは幸運ではなくて、事前に防ごうと動いた努力が報われただけだということは重々承知していた。しかし、それがわかっていても所長は自分の采配が完璧だったとは断言できなかった。そもそものところ何故こうなってしまったのかが理解できずにいた。
原因はどうあれ結果は出ている。そのことが彼女を苛立たせる要因の一つになっていた。彼女にとっての誤算は試薬管理責任者だった沢木恭平が不在であったことと試薬の量が予定より多すぎたことだ。どちらも誰の落ち度でもないのだが、もし責任者が健在だったとしてもこの結果を回避できたかと問われれば、自信をもってノーと答えられるだけの備えができていなかったと、自らを省みざるをえなかった。
彼女の責任を問うとすればそれは、もっと前にこの可能性を想定しておくことができなかったことにあったのかもしれない。「所長。まだ何かやることがあるんですか?」部下の一人が怪訴な顔で問いかけてきた。時刻は午前10時を回っていた。通常ならば始業していなければならない時間だったがすでに臨時体制に移行していたこともあってか咎める人間はだれ一人として存在しない。もちろんそのことに安堵する余裕もなくて、所長は今自分ができることを探して必死にもがいていた。彼女が何を考えているにせよこんなところにいつまでも座っている理由が見つからないこともまた事実だった。しかし彼女は、この場で自分に何ができるのかがわからなくて、ただ漫然とモニターを眺めていた。
いや違う。
自分のやるべきことはなんなのかを懸命に模索しようとしている最中だったのだ。「ごめんなさい。邪魔したわね」彼女は椅子を引き立ち上がると足早に立ち去った。沢木恭平は昨日の昼から帰っていなかった。連絡すらつかず、心配になった同僚たちは何度か自宅まで出向いたが結局空振りに終わったようだった。
彼はどこに消えたのだろうか。まさかテロに巻き込まれているわけでもないだろうが、もしも万が一そうであれば大変だぞと思えなくもない。もちろん彼の安否は気になるがそれ以上に、彼が消えてからの研究所全体の様子が気がかりでならなかった。主任はともかくとして他の研究員たちのことを思うと胸の奥底から嫌な感じが込み上げてくるのを止められない。不安を振り払うかのように仕事に没頭したが、その思いは的中してしまったらしい。
モニター上で赤い文字が流れ出した時には思わず耳を塞ぎたい衝動を抑えられなかった。そしてそれは、悪い予感が当たったことを意味した。
『施設内システムへの不正アクセスを確認しました』
そのアナウンスが流れた途端周囲では喧騒が巻き起こった。誰もが口を開きっぱなしになって、その様子はどこか間の抜けたものに見えてしまうが仕方がないことだろう。何しろ今まで聞いたことのない警告が出たのだから。沢木の身に危険が迫っているのではないかと一瞬頭を過る。しかしすぐに打ち消された。沢木に限って、それこそあり得ないだろうと。扉が開け放たれるなり罵声が響いた。
『お前ら、なにやらかしてくれた?!』
『ただちに対応してください。侵入者はセキュリティを突破しています……速やかに対策を講じない場合、生命維持に支障をきたします』「冗談じゃないよまったく!」
モニターに向かいながらひとり言を口にしているのを見て周囲の人間から不審がられたのは言うまでもないが、それでも気にせず続けてしまったくらいなのだから無理もないことだった。
「一体何やってるんだ?! 早く止めろ!!」
沢木がモニタールームに入るなり大声で指示を出すが返事はない。全員が固唾を飲んでモニターに注目しており所長に至っては青ざめた顔をして、唇は微かに震動を繰り返していた 所長が怯えているのは、それが沢木に対するメッセージであることを理解しているからだ。しかし彼にはそれを気に留めるような心のゆとりはなく、ただただ焦りを感じていただけだったのだが、だからといって現状は変わるわけではない 所長が手近にいた職員を怒鳴りつける。
モニター越しではなく実際に面と向かって「聞いてんのか?!」
『現在対応にあたっています。もう少し待ってください。お願いします!』
所長の剣幕にも負けずに若い男の職員は食い下がるように言った 所長は、自分の言っている言葉に矛盾を感じないではなかったが、それよりも沢木がどうなっているかの方が重要だったため職員の言葉を遮るように声を張り上げた
「お前ふざけてる場合か?! いいからさっさとなんとかしてくれ!! それとも俺が何とかすれば済むと思って言ってんなら……」
「やめなさい!」所長の声を途中で遮ると笹谷亜希は自分のマイクに向かって言い放った
「あんた達もいつまでも呆けてないで、この馬鹿げた騒動を終わらせてちょうだい!」
彼女は自分が発した命令に対して疑問を抱くこともなければ違和感を覚えることもない。なぜなら彼女こそがこの事件の原因だから 笹谷亜希がモニターを睨みつけながら拳を握りしめている一方で、モニター内の画面では施設管理システムを支配下に置いた人物が、まるでゲームでもプレイしているかのように好き勝手に操作を続けていた。画面に映るのは見覚えのある3Dグラフィックだった その映像が何を意味しているかは明白だ。モニター上に表示されているデータと実際のデータを比較すれば、数値にどれだけの開きがあるかを簡単に確認することができる。
もちろんその逆もあるわけだが「くそぉ」彼は呟いた。そしてキーボードに手を置いた「こんな時に何考えてんだよあの人は」沢木は不愉快さを隠そうともせずに舌打ちをする『侵入者は第1実験室に立てこもっている模様です。至急対策本部まで応援願います』スピーカーから流れる女性職員の声が室内に響き渡る。「おい誰かいないか?」沢木は呼びかけた。しかし誰一人として答えようする者はいなかった 彼の声はマイクが拾わない場所へと移動したためだった。沢木は肩を落としたが気を取り直して再び声を上げた。
その時にはもう彼の存在は誰にも感知されることのない存在となっていた。****【5分前】A県の某市郊外の雑居ビル、そこの一室に彼らは身を潜ませていた。彼らが身に纏う黒い衣服には血糊が付着しており、床には人間の残骸とも言うべき肉片がいくつか転がっていた。壁には赤黒いものがへばりついている。彼らの目的はここに集まっていた者たちを殺すことだったようだ。つまりはこの部屋にいる連中はすでに全滅させられた後ということになる 部屋には6人おり、部屋の隅の方に身を潜ませる男が4名に対して入り口付近に佇む女がひとり。
男は手にショットガンを持っていた。それは彼が所持する唯一の武器だったが、すでに使い物にならない状態である。銃口から煙が上がり弾痕からは白い硝煙が立ち上っているが、それでも男は満足そうだった。むしろ誇らしげでさえあった。女は彼の様子を観察すると静かに息を吐き、傍らに立つ仲間を見上げる。すると視線に気が付いたのであろうかその男は口を開いた。顔には笑みを浮かべている。
この状況にあって、それがどれほど異様な光景であるのか当人たちは気が付いてはいないのだろう。彼らの目的は単純だった「これで全部ですかねー。結構な数が居ましたしぃ、まあ問題ないかと」男の口調には緊張感の欠片もない。その隣で壁を背にして腕組みをしているのはリーダーであるらしい。女が答えるよりも早く、もう一人の仲間が彼女の横に並び立つ
「そうね。これだけ殺れば十分でしょう。目的は果たしたわ。帰る準備を始めましょう」女の声に淀みはない。まるでこの場で起こっている出来事を気に留めていないかのような自然さだ。しかしそれも当然と言えるだろう 何故なら彼女の認識においてはここは現実ではないからだ。彼女はこの場所がどこかも知らない そもそも彼女自身はこの場所について何も知らされてはいないのだ。それ故に彼女は今自分が何をすべきかもわかっていない 彼女にできるのはただ一つ、男たちを見つめることだけだった。
「いやぁにしてもお姉さん凄いですねぇ。僕びっくりですよ。こんな綺麗なお嬢様だなんて思わなかったんで」「……」褒められてる気がしなかったので、彼女は沈黙を守る。「ちょっとだけ僕の趣味につきあってもらってもいいですか?もちろん報酬は出しますから」彼は右手の指を五本立てて見せる「いくら何でもそれだけでは多すぎるわよ。それにそんなことする必要がどこにあるって言うの?」
彼女の表情には警戒の色が浮かぶ。彼にとってみれば彼女もまた自分たちと同類であることくらいわかっているのだ。それを金で買おうと言うわけだから彼女は少しばかり驚いているのだった。だが次の瞬間彼女は後悔することになる。彼の左手の指は六本増えていた。彼女は思わず悲鳴を上げた 彼女が知る由もないのだが、彼は最初から五本のつもりだった。それが彼女の声を聞いたことにより六本になったことについては、単なる偶然だった。しかし、彼にとってそれは幸運以外の何者でもなかった。
【1時間ほど遡る。5月27日 16時35分 B県 山中にて―――雨合羽のフードを被ったままではさすがに落ち着けなかったので、俺はそれを外すことにした。そして腰に手を当てて深呼吸をしてみる。少しだけ落ち着いてきたので懐中電灯を点けて辺りの様子をうかがった。