視界は良好とは言い難かったが、それでも何とかなりそうな程度だった。
どうやら道はそれなりに整備されているらしく土がむき出している部分もあるが、砂利敷きになっている箇所も散見された。もっとも歩きづらくはなさそうだが、水はけが悪いのだろうか時折水が溜まりかけているような場所がある。注意しながら歩く必要があるだろう。時刻はまだ16時過ぎだというのに随分と暗いと思った。曇天模様なのは間違いないだろう。周囲が木々に覆われていることに加えて、夜目の効かない俺にとっては光量が不足していることもあって薄気味悪い雰囲気を醸している。正直に言えば引き返したくなっていた。
「まぁここまで来ておいて今更引き返すってのはあり得ないんだけどな」自分にいい聞かせるように呟いてから先へと進む。山肌の傾斜は急というわけではなかったが、緩くもない。緩やかな坂といった感じか しばらく行くうちに勾配は徐々にきつくなってきたようで息が上がってくる。気温が低いことも影響しているのかもしれないが体力的にかなり辛い状況だ。とはいえここでへばっていては目的地に着く前にバテてしまいかねないので気力で我慢するしかない。何しろここに入る前には登山装備まで持ち出したのに結局使わずじまいになってしまった。あの荷物を持って山の中を引き返さなければならないことを考えるとげんなりした。いっそ途中で放棄してしまいたいという気持ちがないでもなかったが とにかく今は少しでも前に進むことに集中しよう。そう思っていたのだが、前方で何かが動く気配があった。目を凝らすと暗闇の中から白い手がゆっくりと現れてこっちの方に向かって伸びてきているのが見えた。
「…………!」
反射的に立ち止まって距離を取り懐中電灯を向けた。すると手はすっと闇の中に引っ込んでいく。その光景に思わず後ずさりをしたその時だった、背筋を走る感覚があった 俺は本能に従い後ろを振り向いたそこには何の変哲もない森が広がっているだけだ。ただ木の影に隠れているだけで何もないと思わせる演出にしてはいささかもったいない。もう一度正面を見るとやはり何者かが居るようにしか見えなかった。だがいくら見ても木しか見当たらない。そもそもこんな場所で人が何をやっているというのか? 疑問はあったがそれを口に出すよりも先に体が動いていたことに他ならない。もし相手が友好的な存在であったならそれでよかったのだ。
仮に危険があったとしても対処することはできるだろうし、もしもの場合に逃げ出せばよい 懐中電灯を消し、忍び足で相手との距離を詰めるつもりだったが、相手の姿を認めたことでその考えを改めざるを得なかった。そこには何も存在していなかった。確かに人の形に切り抜かれた闇の奥は静まりかえっていた。ただそれだけのことだった。「なんだこれは?」と口に出た。恐怖心よりは困惑の方が勝っていたせいもある。俺は今見たものをすぐに受け入れることができなかった しかし、いつまでもぼんやりしているわけにもいかない。得体の知れない存在をこのまま放っておくことはできなかった。意を決して近づいてみると再び腕らしきものが地面から生えていることに気が付いた。
さっきと同じようにゆっくり手が伸びてくる。その指先は俺の靴を掴もうとしているようだ。恐ろしさもあったが同時に興味もあった。果たしてどんな生き物なのか。
「うおっ!? びっくりした」突然の出来事に驚いてしまい素っ頓狂な声を出してしまったが、それと同時に足元を取られてつんのめってしまう。どうやらこの空間において相手の方に主導権を握られてしまっているようだ。俺の腕力では払いのけることはできないらしい。このままなすがままにされてしまうしかないのだろうか? 諦めかけた時だった。頭上で羽音が聞こえたかと思うと同時に光が辺りに降り注いだ。
見上げるとヘリコプターが旋回していた。どうやら救助隊が来たらしく、ヘリからは照明器具を吊り下げて俺たちがいる地点を目指しているようだったが、こちらからは何も見えないのが不安要素ではあるが他に頼れるものはない やがて地上の明かりが見え始めた。
徐々に高度を下げてきたそれは着地したかと思うとその真上にあった照明灯も地面に接触させ、周囲一帯を眩いばかりに照らした 救助対象が居ると思われる場所に視線を送ると人の形をしたシルエットを見つけることができた
あれがおそらくそうだと判断したところで、今度は視界の端にちらりと何か黒いものが映ったが確認する間もなく光に包まれた次の瞬間には姿を消してしまっていた。結局それが何者だったのかわからぬまま、俺は助かった。そして今に至る 。これら一連の事件の背後に潜むものは何だろう?それともただの偶然の一致だろうか。あの晩以来ずっとそのことだけを考えていた。答えは出なかったがそれでも考えるのを止めることはできなかった。何にせよ、あの森だけは二度と近寄るまいと思っている。
5月16日 15時50分 都内の病院の一室で意識不明のまま眠る男の顔はひどく青白く見える。まるで蝋のようだ。顔立ちそのものは端正と言ってもよいくらいなのに肌の色がそれを邪魔してどこか不気味ささえ感じさせる。そんな彼の様子を少し離れた場所で見守っているのは彼の妻である「……さん」彼女の声に応えるように病室のカーテンの隙間からそっと風が吹き抜けていった 男は今日目を覚ますことができるのかどうか。少なくとも明日目覚めることができるとは限らなかった。何故なら彼は今命の危機に瀕しているからだ。
原因不明。治療法はなし。まさに死への誘いそのものと言える状況だった。医師は「これは金曜病に違いない!」と確信し興奮した。症例は僅かに報告されていたがどれも軽症で学会では問題視されていなかった。ところがここ最近になり発症者が急増加。その原因として有力な説とされていたのが『週末の夜にテレビを見るようになった若者が増えている』というものだったのだが今回は当てが外れた。なぜなら発症者は全員40代以上の中年男性なのだから 金曜日の18時から20時の間に発症することが多く月曜日になると回復。
このことから当初は「月曜病」「週休二日論」「週末型社畜化」など様々な名前で呼ばれることになるこの奇妙な病気だったが症状自体はさほど重篤ではないということから、人々は冷静に対応していった やがてある共通点が発見されたことで、事態は急速に悪化することになる それは『曜日に関係なく深夜に発症することが多い』ということだった当初こそ「徹夜でもしてるんじゃないか?」などと言われたりもしたがそんなことをしたところで体力的に問題があるのなら、とっくの昔に倒れていただろうとすぐに否定され、「きっと不規則な生活をしているのよ」とか「ゲームをやりすぎなんだ」といった噂話がささやかれる程度で特に大きな問題ともならなかったが、ある日を境に突然その認識が一変してしまったのだ
そしてついに先週の火曜日のことだった「うわあああ!俺じゃないぞおお!!」その悲鳴を聞いて駆け付けてみれば「俺の腕じゃねー!」
そこには左腕を失い錯乱状態に陥った患者の姿が その事件を皮切りに同様の事件が相次ぎ世間を恐怖へと陥れていった 今となっては「金曜病だ」などと口走る人間は誰一人おらず、「感染が疑われる場合速やかに最寄りの病院で隔離されることが求められる。それが患者本人であれ周囲の家族や友人であれ一切の例外なく!」その日以来男は毎週1人ずつ仲間を増やし続けていくことになるのだ――
「何やってんだろ……」
5月23日 17時35分 私はため息をつく「ウイルスが5G電波で運搬されるという都市伝説はあったけど、まさか本当に開発する人がいたなんて」そう金曜病ウイルスは極めて軽量で電気を帯びる性質が高い。したがって空気中を特定の電磁波に誘導されて漂い、感染するのだ。ただし実際に運ぶためにはある程度の大きさが必要だし人体には有害であることに変わりはない。しかし今回開発されたものは小型化されていて肉眼ではほぼ確認不能であり(とはいえ電子顕微鏡を通せば見えてくる)しかも人体の免疫系にも影響されないらしい。さらに今回のウイルスは感染経路が経口によるという。そのおかげで飲み食いには十分注意してさえいれば日常生活を送っていくうえではまず罹患しないと言われているがそれでも不安を感じる人は大勢いたはずだ。私もその一人だ「それにしても何考えてるんだか。こんなもの作って誰が得をするっていうのかしらね……ん?」
窓の外に見覚えのある人物が立っていることに気が付いた。あの子だろうか。いやそんなことはないだろうと思いながらも、念のためスマートフォンを手に取りメッセージアプリを開く。そこにはたったいま送られてきたばかりと思われるメッセージが残っていた。差出人の名は「田中花子さんへ」。内容は次の通りだ このメッセージをご覧になっている方へお話があります。先日の電話についてお答えしたいと思います。私の父は生前とても変わった人物として知られていましたが、それはある意味正しいのです。なぜならば父の作った「金曜日病ウイルス」によって殺されたからなんですから。私はずっとそれが父の仕業だと思い込んできましたし警察もそれを信じていました。そして今日ついに犯人を特定したというわけです。もうわかっているかもしれませんけれど私はあなたのクラスメイトである笹谷亜希ではありません。あれは父の秘書を務めていた女性の端末の中身を書き出しただけなのです。秘書の名前は笹谷咲夜といいます。
彼女の連絡先は知りませんでしたので直接会いに行く必要がありましたがようやく居場所を突き止めることができました。さてこれからどうなるでしょうか。私が犯人だということに気づいた父がどういう行動を取るか非常に興味深いですね。でもおそらく無駄に終わることでしょう。父はもう死んでいますので、すでに死んでいる人間を止めることはできません。さようなら。「……あれ、なんだそりゃ」
こんなメッセージが入っていた。『昨日の朝、田中さんからメッセージがきました。今日一日お願い、できるだけ早く帰って欲しい。どうしても帰りたい人たちのために早く家へと帰りたい。どうやら父は自分の居場所を見つけ出すためにウイルスを作り出していたようです。もちろんそんなウイルスなんて簡単には作れやしません。でもこのメッセージを見て私はその可能性を確信しました。今から彼女のもとへ向かわせて下さい』どうやらこのメッセージを読んでいる間は母がここにいないようだが、それは本人が誰かに聞かれたくないのかもしれない。「なんだろうこれっていうか私はなんでこんなこと送ってるんだろう……」気になってメッセージをクリックした。すると今度はメッセージと同じ文面で、『本当にごめん!!本当にごめん、私から連絡が遅れて。ごめんなさい、本当にごめんね。……もしもし』という表示が出てきた。「なんじゃらほーん……」「お疲れ様、あれ」
そういえば母が言っていたのだが、母が亡くなってからずっと連絡が途絶えている。それを聞いて少し安心する。今ならきっと母を呼んでくれると思った。それに父からの連絡で帰ってこなくても母に心配したってもらえるからだ。母とふたりで話したい。でもどうしていいのかわからない。……こんな私であるが家に帰ったらきっと母は怒るだろう。だからそんな言葉が頭に浮かんだ。そんなことは私は絶対に嫌だ。どう考えてもあいつは自分の居場所を見いだしてくるだろうし。それなのにどうして私は母の居場所を見いださなかったんだろうな。あいつがどんどん来なくなるじゃねぇか。なんで自分が来てないって思わされねぇんだ。「……とりあえず家に帰って寝よう」と思ってベッドに入ろうとしたとき、ふとメッセージが入った。
【明日も学校だから寝たら連絡して。明日も学校だから寝よう】と。ん? 明日は学校? 私は思わずメッセージに既読を付けた。【明日は休みだけど大丈夫?】【大丈夫大丈夫。ちょっと行ってくるだけだから】【わかった。じゃあおやすみ】
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