六月を迎え、いよいよ本格的に梅雨が始まったばかりの頃だった。僕は自分の部屋のベッドの上でダラダラとスマホを眺めていた。動画投稿サイトを開いて動画を視聴したり、たまに友達と連絡を取ったりして悠々自適に過ごしていた。昨日となんの変哲もない時間が過ぎていく。
─ピコーン─
リラックスしながらこの空間を楽しんでいるとスマホから一件の通知が鳴った。連絡をよこしてきた相手は幼稚園からの幼なじみの流花からだった。彼女は僕とよく似ている。彼女は控えめで自己主張は強くないし仮に嫌がらせをされても反抗しないような、そんな性格だ。幼稚園の頃、好きな芸能人が一緒だということで出会ってすぐに意気投合した。以来、彼女とは八年来の付き合いで今年の夏に九年目を迎える。お互いを知り尽くして気を遣わない関係だ。そんな彼女とは休日でも時々二人で推している芸能人の話で盛り上がったり、たまに人生相談をすることがある。なので、今日の連絡も推しに関することか人生相談だと思った。推しからの発表があったのかな、とか、何か相談したいことでもあるのかと、いい意味でも悪い意味でも興味を持って彼女とのトーク画面を開く。
「今から家来れない?話したいことがある」
彼女からのメッセージはこの一文のみであった。珍しいと思った。何故なら、彼女が一文だけで文章をまとめることをこれまでに見たことがなかったからだ。少なくとも補足をつけた文章が送られてくる。物珍しさと違和感を感じると共に、その文章から只事じゃない雰囲気を感じた。簡単に言えば、嫌な予感がした。
「わかった。けどなんでか教えて?」
こう返信をすると直ぐに既読がついた。
「チャットじゃ難しいの。だから早く来てほしい。直接話したい」
その文を確認して、僕は嫌な予感を抱えたまま彼女の元へと向かった。
外は雨が降っていた。雨は強かった。
流花の家に着くと、玄関の扉の前にずぶ濡れになった流花がうなだれるように座っていた。俯いたまま動かない。僕は何事かと思い、とりあえず流花を家の中に入れた。話はそれからだと思った。
家の中に入り、流花の部屋の前に立った時、流花が急に口を開いた。
「昨日人を殺したんだ。」
流花から聞いたのはその衝撃の一言だった。僕は思考停止してしまって上手く言葉の処理ができなかった。
「え?」
「私ね、昨日人殺しちゃったの。」
流花は顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、僕の目を真っ直ぐ見てそう言った。
流花の体は震えていた。
ずぶ濡れになって泣きじゃくり体を震わせながら人を殺したとかいう流花が気味悪くて、何よりドラマみたいなこの展開に僕は居心地が悪かった。僕はすかさず理由を尋ねた。
「え、どういうこと?なんで?」
「もう耐えられなかったから。」
「耐えられないってあのこと?」
「うん。隣の席のいつもいじめてくるあいつのこと」
流花はクラスでいじめられていた。高校二年から始まり、進級して三年になった現在も。それは壮絶なものだった。上履きをゴミ箱の中に捨てられていたり、給食の中にゴミを入れられたり、椅子に画鋲が敷き詰められたこともあった。流花の私物が無くなっているなんてこともざらにあった。根も葉もない噂を流されたり、クラスで起きた問題の責任を押し付けられたりしていた。それはまさに王道で、昭和的ないじめだ。そのいじめの主犯格が隣の席の由奈という一軍のリーダー的存在の女子だった。僕のような陰キャに冷たい対応を取るようなタイプの人。そう、イキリ。
流花はシャイな性格でありながらクラスの高嶺の花のような存在でもあった。常に成績優秀でスポーツ万能で後輩にも先生にも同級生にも好かれる、それでいて人見知りで内気で謙虚な存在。どこに嫌われる要素があるだろうか。高嶺の花のような存在に嫉妬したイキリ陽キャが嫉妬していじめる話なんてよく話であろう。そう、流花はそんなよくある話の被害者であった。
流花によると、事の発端は流花の友達の一人が、流花が由奈の悪口を言っていたと言う嘘を由奈に伝えたことだという。その子も流花と同様、勉強ができた。その子は元々流花と定期テストの点数を競い合っていた。ある日の定期テストの総合点数で流花と大きな差をつけてしまった。その時に流花がかけた「次あるしそん時頑張ればいいよ!」という何気ない一言に、その子は流花が余裕ぶっこいて、さらに煽ってくるのかと思い、さらに今まで一回も流花に勝てたことがないのもあり、無性に腹が立ってしまって衝動的に由奈に嘘をついてしまった。元々流花をよく思っていなかった由奈はいじめをするには好都合だと思い流花をいじめるようになった。
最初は流花を庇う人が多かったが、心の優しい流花は周りの人を巻き込みたくない思いから、庇ってくれる人を一人ずつ言葉のナイフで傷つけていった。庇おうとする人のコンプレックスをわざと引き合いに出したりして嫌われようとしたり、恋人や家族の悪口を吐いたりと。遂にはもう、流花を庇う者などいなかった。高嶺の花だった流花は落ちぶれた。
流花は時々、クラスが違う僕に悩みを打ち明けるようになった。それは流花が一人でいじめと闘い出した高校二年の六月から一年ほどが経った頃からである。最初は彼女は気丈に振る舞いながら相談してきたが次第に声のトーンも落ちて、最終的に別人のように性格が変わってしまった。ただでさえ控えめな性格がもっと暗い方向にいってしまった。
そんな経緯があり、僕は彼女の事情を知っていたので彼女の発した「あいつ」が誰かすぐに分かった。
「なんかもう嫌になっちゃって。昨日なんて廊下歩いてたら後ろから突き飛ばしてきたの。なんかもう私我慢できなくてさ、肩突き飛ばし返しちゃって。そしたらね、由奈ちゃんね、階段から落ちてさ、見たら血出てたの。」
だんだん息が上がってく流花にすかさず駆け寄り背中をさする。
「ゆっくりでいいから。大丈夫。」
「血出てるって思って駆け寄って声掛けたんだけどなんにも反応なくて。」
過呼吸気味になりながら話す流花。
「それでね、息してなくて。多分打ち所悪くて。殺しちゃったみたいなの」
「そう。」
僕は返す言葉が見つからなかった。なんて声をかけようか迷っている隙に流花が言葉を発した。
「だからもう私、ここにいられないと思う。だから逃げる。どっか遠い所で死んでくる。今までありがとね千尋。」
泣きながら僕にそう言う流花。
「嫌だ。僕も行く。僕も連れてって。一緒に行く。」
僕はすかさずそう返していた。
「なんで?え、なんで?」
「一緒に死にたいから」
「意味が分からない。どういうこと?」
「分からなくていい。とにかく一緒に行く。」
「ダメだよ。千尋は生きて。」
「いいんだよもう。それに良い機会なんだ」
「ねえ、理由話して。急にそんなこと言われても分からないよ」
気づけば僕らはさっきとは打って変わって喧嘩をしていた。
「君に話すような事じゃないよ」
「なんで?じゃあ着いてこないでよ。私の気持ちなんか分からないくせに急に一緒に死ぬとか馬鹿げたこと言わないでよ。生きろっつってるの。」
「一人で死ぬよりいいだろ。二人で逃げた方が心強いだろ。ただそれだけだよ。」
「何年友達やってると思ってんの?本心じゃないことくらい分かってるから。ホントのこと話してよ。じゃないと納得できない。」
僕は深いため息をついた。ほんとうの理由を話さないと話が進まないと思ったので話すことにした。
「ダメ人間だからだよ。生きてる価値もないダメ人間だから。」
「それだけ?」
「は?」
「え待って。それだけの理由で私と一緒に行くとか言い出してんの?私人殺したんだよ?あんたと一緒にしないでよ!」
「一緒にしてないって。死ぬのに理由の大きさなんて必要ないだろ!」
「なんでそんなに粘ってんの?もう分からないんだけど」
流花はそう言って再び泣き崩れてしまった。
「あんなに相談してくれたのに助けられなかった。気づいてたのに見て見ぬふりした。僕も被害に遭うんじゃないかって怖かったんだよ。ごめんな、救えなくて。」
僕は半泣きになりながら、泣き叫ぶ彼女にそう言った。展開が忙しくて困惑しつつもとにかく流花を、母と同じようにしたくなくて、孤独にしたくないという一心で瑠花に訴えたのだ。そしたら、何故か喧嘩になってしまったのだ。
「まだあの時のこと引きずってんの?」
しばらく沈黙だった空気を切り裂くように流花は小さな声で僕に言った。
「ほんとは違うんでしょ?私を庇えなかったことじゃないでしょ?沙苗さんの件でしょ?一緒に死にに行きたいのは自分のためなんじゃないの?」
僕はその言葉を聞いた瞬間、胸がドキッとした。
流花を庇えなかったことが理由なのもあるが、頭の片隅には母のことがあった。
三年前、母が自殺した。僕が十四歳の時だった。
原因は父の暴力癖によるものだった。父の暴力が顕著になったのは僕が小学校に入学してしばらくしてからのタイミングだった。当時、父は転職をしたい、と会社を辞めて家にいるようになった。以前の父は会社の中でも優秀な方で、プライベートでは酒を飲まない人だった。しかし、仕事を辞めた途端狂ったように飲むようになり、父は酒を飲む度に母や僕に横柄な態度を取るようになった。次第に、横柄だった態度は暴力的な態度に変わり母を殴るようになった。そして、父は家から出ず酒ばかり飲むようになった。実は、僕は父がそうなってしまった理由は分からない。だが、恐らく会社内ですごく理不尽なことがあったのだろう。母は父の代わりに働きに出るようになった。男二人を養うために朝から晩まで働き詰めた。そして、家に帰ってきては家事をする。母はそんな毎日を送るようになった。
父は母だけでなく、僕にも暴力を振るうようになった。それもお酒を飲んだ時だけなのだが。母は毎回僕を庇って盾となってくれていた。僕を守りながら、笑顔で「大丈夫だから」って強がっていた。
そんな生活が始まり六年経った頃、母に異変が出るようになった。常に笑顔を絶やさなかった人が笑わなくなった。ごめんねという言葉を沢山言うようになった。体は細くなり、顔もやつれてしまった。そんな母の異変に気づきながらも僕は何もすることが出来なかった。せめて家事をやればよかったと今は思うが、当時は小学生だったのもあり、ただ日々の感謝をすることしかできなかった。
僕は小学校を卒業し、中学に入学した。父は相変わらず家に引きこもっていた。細身だったスタイルは変わり果てて、男前な顔は無造作に生えた髭に覆われ、不潔感満載になった。
父は朝から酒に明け暮れ、母は、朝から働きに出ていて家にいない。これはいつもの休日のスタイルだ。僕は部活をしていないので休日は家で過ごしている。
ある日僕は、朝起きてダラダラ動画観てお昼を一人で食べて、そしてまたゴロゴロと動画を見て夜まで過ごした。
そして母は、夜中の十二時を回った頃に帰宅した。
事件はその翌日のことであった。朝目覚めていつも通りリビングに向かうと、すぐ側にあるキッチンで母が倒れていた。変わり果てた姿であった。血にまみれた顔や体。真っ赤に染まった包丁。血の海と化した床。赤の中に微かに見える顔は青白く、触ってみると冷たくなった母の姿。リビングにあるダイニングテーブルには手紙のようなものが置いてあった。
「千尋へ
先に逝くことを許してね。お母さん、もう疲れちゃった。お父さんの事宜しくね。ありがとう。大好き」
手紙にはそう書かれていた。殴り書きで書かれたような字であった。紙にはポツポツと涙のような痕があった。
呆然とした。悲しいというよりも、目の前で起こっている現実がドラマみたいに感じてしまって信じることが出来なかった。人にこんな感情が備わってるなんて知らなかった。本当にショッキングなことが起きると、人間はその光景をただただ傍観することしか出来ないのだと思った。
急いで父を呼び、父にも変わり果てた姿を見せた。父は「すごい赤い。汚い。あ、死んだの?」と吐き捨てまた部屋にこもろうとした。その瞬間、僕の中にこれまで生きてきて今まで感じたことの無い激しい怒りがこみ上げた。僕は父の胸ぐらを掴んだ。
「母さんが死んだのはお前のせいなんだよ!どうしてくれんだよ!母さんはお前に代わってずっと働きに出てたんだぞ!それなのに、赤い!?汚い!?ふざけんなよ!」
父は無反応だった。だろうなとは思っていたが、父が愛した人が亡くなったというのになんとも思っていないようなあの態度に酷く腹が立ってしまった。あの時の父親はどこに行ってしまったのだろうか。あの時の楽しくて平和な家庭はどこに行ってしまったのだろうか。そんなことを思うと涙が止まらなくなってきた。
母が亡くなって以来、僕はずっと後悔してきた。父に殴られている時、僕を庇ってくれて、痛そうにしながらも笑顔で「大丈夫だから」と、あの笑顔が頭をよぎる度に、母を守る力もなかったあの頃の自分を恨む。家事を手伝うことしかできなかったのに、ありがとう、と言っていたあの笑顔が頭をよぎる度に自分がますます嫌いになる。母が恋しくなる。母に会いたい。
「あれは千尋のせいじゃない。沙苗さんが自分で決めたことなの。沙苗さんが幸せになる方法が死ぬことしか無かったの。逃げ場がなかったの。これは誰も悪くないの」
「僕のせいだよ。母さんが辛そうにしてるの分かってて何もしなかった。ほんとに僕はダメ人間だ。父さんも説得できなかったしさ」
「違うよ千尋」
「何が違うの?」
「お父さんのことは私には分からないけど少なくとも沙苗さんはあなたの事を最後まで想ってた」
「どうゆうこと?」
「私ね、沙苗さんに口止めされてたの」
「え?」
「沙苗さんが亡くなる直前に私にLINEが来たの。見たの朝だったから沙苗さんはもう亡くなっちゃったけど」
「え?」
流花はそう言って携帯を取り出して母とのトークLINEを僕に見せた。
「流花ちゃん、千尋をよろしくね。」
「大丈夫。私が居なくなっても千尋には流花ちゃんが居る。」
「私はもう何を目標に生きればいいのかわからなくなっちゃった」
「千尋はほんとに優しい子なの。人を想える子なの。千尋にいっぱい謝りたいなぁ。こんなお母さんでごめんねって。あなたの大人になった姿を見届けるまで生きることが出来ない弱虫なお母さんでごめんねって。あの子の大人になった姿見たかったな。千尋は私の大切な宝物。」
「けどね、やっと楽になれると思うの。」
「このメッセージは千尋には見せないでほしいんです」
「コレ見たらあの子、自分のせいで死んだってことを一生思い続けると思うの」
「ダメダメなお母さんだったけど、せめて最後は千尋に強い姿を見せたいの」
「お願いします」
「千尋をよろしくね」
「今まで千尋と仲良くしてくれてありがとうね、これからも仲良くしてあげてね、」
メッセージは一文ずつ送られていた。
「私ね、やっぱり黙っていられなかったから千尋に何回も電話したの知ってる?」
「え?そうなの?」
「そうだよ、全然出なくて家行ったんだけど誰も出なくて」
「ごめん。」
救急車に通報してから万が一のため、充電を切らないよう携帯の電源を切っており、流花の訪問に気付かなかったのはその時は警察や救急隊員の対応などで疲れすぎて寝てしまっていて気づかなかったからである。
母を失ったショックで誰とも会いたくなく、家から出ない生活を送っていた。
「でもさ私暫く考えたの。なんで口止めみたいなLINEを私にしてきたのか。やっぱり、沙苗さんはあなたに最後までいい母親でいたかったんだろうなって。そしたら、そんなの言えないに決まってるじゃんか。黙っててごめん」
「大丈夫だよ」
「だから千尋は生きて。沙苗さんのためにも。あなたには生きる義務があるの」
「でも」
「でもじゃなくて」
母は僕を最後まで愛してくれていた。それが分かって少し自分の中の自責の念が軽くなった気がした。しかし、より一層流花と共に逃げたくなった。なぜなら、母さんが僕を愛してくれていたのが分かっただけで僕は母のことも、ずっと気にかけてくれた流花のことも、今では関係が悪い父のことも、何一つ守れていないからだ。大切なものを何一つ。だからせめて流花の支えになりたいと思った。それが今の自分にできる大切な人を守る方法だと思った。
「いや一緒に行く」
「なんで?」
「君がずっと僕のことを気にかけてくれた、大切に想ってくれた、母さんのことも1人で抱え込ませた。今度は僕の番だよ。僕が流花のために動く番。何があってもずっと味方だから。もう何も独りで抱えさせない」
「千尋・・・」
そう言うと流花は大粒の涙を流した。
「流花、一緒に行こう」
流花はもう何も言わず深く何度も頷いた。
僕は一度家に戻った。これから始まる長い旅に必要なものだけを揃えに。
財布を持って、ナイフを持って、携帯、ゲームもカバン詰めて要らないものは全部壊していこうと思った。いつか撮ったあの写真も、いつか書いたあの日記も今となっちゃもう要らないさ。父親には何も言わずに家を後にした。
僕は再び流花と合流した。
「行こう」
「ほんとにいいの?千尋」
「うん」
「ありがとう」
「二人なら何も怖くない」
「そうだね」
僕らは途方もない旅に向かって、遠いどこかに向かって足を踏み出した。目的地のない旅だ。きっと旅の途中で困難に襲われることもあるだろう。でも、それでも平気だ。二人だから。乗り越えていこうと決めた。
いよいよ始まる。さあ、これは人殺しとダメ人間の君と僕の旅だ。
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