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#和風
あくる日
その日は、朝から空気がぴりぴりと震えていた。
八百万堂の古道具たちが、一斉に怯えたように声を殺している。
「お小夜、外へ出るな……天の怒りが、すぐそこまで来ているぞ」
長年愛用している古い火箸が、カチカチと歯の根の合わない音を立てて警告する。
不意に、真昼の江戸が夜のように暗転した。
────ドォォォンッ!
腹の底を突き上げるような轟音と共に、神田の空をどす黒い雲が覆い尽くす。
雲の間から覗くのは、金色の奔流。
荒ぶる雷神・雷王の分身が、ついにその牙を剥いたのだ。
「見つけたぞ、出来損ないの水神!貴様の持つ『青の宝玉』、返してもらおうか」
空を割って降りてきたのは、稲光を纏った巨躯の男。
彼が一歩踏み出すたびに、江戸の石畳が爆ぜ、火花が散る。
「……瑞樹さん!!」
店から飛び出した私の前で、瑞樹さんはすでに刀を抜き、天を睨んでいた。
けれど、その体は未だ不完全。
雷神の圧倒的な神気を前に、膝がかすかに震えている。
「さよ、中へ入っていろ!ここは俺が食い止める」
「嫌です!瑞樹さんがボロボロなのに、放っておけるわけないじゃないですか!」
私の叫びに呼応するように、雷神が嘲笑いながら雷を放った。
「ならば、その娘ごと消してくれよう!」
激しい閃光が視界を埋め尽くす。
死を覚悟したその瞬間、瑞樹さんの体が青い光に包まれた。
彼の胸の奥から、まばゆい輝きを放つ「勾玉」が浮かび上がる。
それは、瑞樹さんが天界にいた頃の力の源
半身とも呼ぶべき『神宝』だった。
(……取り戻せ。それを手にすれば、雷神など容易く屠れるだろう……)
瑞樹さんの「心の声」が、悲痛な響きを伴って私の耳に届く。
けれど、その声の裏側には、底知れない「喪失」の予感が混じっていた。
(……だが、神の座に戻るほどの力を得れば、人の情など霧散する。この娘と過ごした、泥臭くも愛おしい日々の記憶さえも……)
「瑞樹さん、ダメ!それを取っちゃダメ!」
私は思わず彼の背中にしがみついた。
神宝に触れれば、彼は強くなれる。
けれど、それは「八百万堂の居候」としての瑞樹さんが死ぬことを意味していた。
「…さよ。俺は、お前を守りたいのだ。そのためなら……」
瑞樹さんは哀しげに微笑むと、私の手をそっと振り払い、浮かび上がる勾玉を掴み取った。
───刹那、神田の町を巨大な水柱が貫いた。
濁った雷雲を、清らかな水流が一気に押し流していく。
瑞樹さんの着流しが神々しい白銀の装束へと変わり、その背後には巨大な龍の幻影が立ち昇った。
「失せろ、雷神。ここは俺が……守る場所だ」
冷徹なまでに静かな声。
瑞樹さんの一振りが、雷神の分身を霧のごとく霧散させた。
江戸の空に、嘘のような静寂と、晴れ間が戻ってくる。
「……瑞樹、さん?」
恐る恐る、私は彼に歩み寄った。
立ち尽くす彼の背中は、以前よりもずっと高く
神々しく見える。
けれど、ゆっくりと振り返ったその碧色の瞳には
私を射抜くような鋭さしかなかった。
「……お前は、誰だ?」
その一言が、私の胸を貫いた。
物の声を聞く私の耳には、もう、彼の心音すら聞こえない。
瑞樹さんは、絶大な力を取り戻した代償に
私との思い出を、その魂から切り離してしまったのだ。
「ここは……。俺はなぜ、このような薄汚れた店に立っているのだ?」
見知らぬ人を見るような、冷たい視線。
昨日まで一緒に囲んだ味噌汁の湯気も
二人で歩いた雨上がりの路地も、すべてが彼の中から消え去っていた。
私は震える唇を噛み締め、涙が溢れるのを必死に堪えた。
「……私は、八百万堂のお小夜です。あなたの、…雇い主ですよ」
守るために、忘れることを選んだ神様。
私たちの運命は、かつてないほど残酷な試練に直面していた。