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神宝を取り戻し
雷神を退けた瑞樹さんの瞳からは、以前のような柔らかな熱が消えていた。
彼は店を去りはしなかったが、ただ静かに縁側に座り
冷徹な神の威厳を纏ったまま、空を眺める時間が増えていた。
私と目が合っても、そこにあるのは「見知らぬ人間」への淡白な会釈だけ。
胸が張り裂けそうな毎日の中で、江戸の町は七夕の季節を迎えていた。
「お小夜、そんな湿気た顔してちゃ、福も逃げるよ。ほら、瑞樹さんを連れて祭りに行ってきな」
煤けた火鉢が、珍しくお節介を焼くようにパチリと火花を飛ばした。
今日は七夕。
一年に一度、天の川の渡し守が粋な計らいをして、人と
江戸に潜む八百万の神々が境目なく混じり合う不思議な夜だ。
「……瑞樹さん。今夜、一緒に出かけませんか?」
おずおずと差し出した私の手に、瑞樹さんは無機質な碧色の視線を落とした。
「……祭りとやらに、何の意味がある。人の喧騒など、俺には不要だ」
「意味なんてありません。ただ、瑞樹さんに見てほしいんです。この町の人たちが、どれだけ星を、雨を、……あなたを愛しているか」
私の必死な訴えに、彼はわずかに眉を動かした。
「……ならば、一度だけ同行しよう」
◆◇◆◇
そしてやってきた、祭りの夜───
江戸の町は、色とりどりの短冊と
笹の葉が擦れ合う「さらさら」という涼しげな音に包まれていた。
今夜だけは、路地裏の小さな神様たちも人の姿に化け
屋台の飴を舐めたり
子供たちと駆け回ったりしている。
「賑やかですね、瑞樹さん」
私は彼がかつて愛用していた藍色の着流しを無理やり着せ、雑踏の中を歩いた。
相変わらず彼の周りだけは空気が澄んで、触れることもできないほど高潔に見える。
けれど、私の耳には、あの日失われたはずの「音」が、かすかに聞こえ始めていた。
(……うるさい。だが、なぜだろう。この提灯の灯りが、やけに目に沁みる……)
それは、記憶を失ったはずの彼の中に眠る「魂の残響」だった。
「ほら、これ、食べてみてください。江戸で一番の冷やし飴ですよ」
差し出した甘い飴を、瑞樹さんは怪訝そうに口にした。
「……甘い。そして、少しだけ……懐かしい味がする」
彼の表情が、一瞬だけ、かつての「居候の瑞樹さん」に戻った気がして、私は鼓動を早めた。
私たちは、町外れの静かな橋の上まで歩いた。
頭上には、天界へと続くような満天の星空。
そして足元には、町中の人々が願いを込めて流した
数多の「灯籠」が川面を埋め尽くしている。
「瑞樹さん。あなたの記憶の中に、私はいないかもしれません。でも、この江戸の八百万の神々も、道具たちも、みんなあなたが守ってくれたから、今夜こうして笑っているんです」
瑞樹さんは川面に浮かぶ光の群れをじっと見つめていた。
やがて、彼は自分の胸を強く押さえ、苦しげに顔を歪めた。
「……思い出せない。だが、心が騒ぐのだ。この光の中に、俺が守りたかったものが、もっと別の何かがあったはずだと」
彼はゆっくりと私を振り返った。
その瞳に、一筋の光が戻る。
神宝の冷たい輝きではなく、かつての、あの雨上がりの月のような温かな光。
「さよ……。たとえ、天界での地位も、完全な記憶も、すべてが戻ったとしても……」
瑞樹さんの手が、私の頬を包み込んだ。
ひんやりとした指先。
でも、そこからは激しいまでの「心の声」が溢れ出していた。
(……離したくない。神の座などいらぬ。俺は、この温もりの傍にいたい…)
「俺は、お前の傍にいたい。たとえ何者であったとしても、この江戸で、お前の用心棒として生きていたいのだと、俺の魂が叫んでいる」
瑞樹さんの唇から漏れた言葉は、私の涙を誘うのに十分だった。
たとえ記憶が完璧に戻らなくても、彼の魂が私を選んでくれた。
天の川の向こうで、誰かが笑ったような気がした。
束の間の平穏。
けれど、それが嵐の前の静けさであることを、私たちはまだ知らなかった。
「……なら、帰りましょう。八百万堂へ」
「ああ…」
繋いだ手から伝わる鼓動は、もう二度と解けないほど強く響き合っていた。