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ピアノの蓋は、
ずっと閉じたままだった。
部屋の隅に置かれたそれは、
インテリアというには存在感があり過ぎて、
使われない理由を静かに主張している。
「…これ」
彼が、
ある夜、ぽつりと言った。
「…弾いても、良いですか?」
その一言で、
胸の奥が、ひゅっと鳴った。
「…どうして?」
問い返す声が、
少しだけ強くなる。
彼は、
鍵盤を見つめたまま言う。
「理由は、分かりません。」
それから、
少し困ったように笑った。
「でも…触らない方が良い気がしてたのに、
今は、触りたい」
(だめ)
(触ったら、戻ってしまう)
でも、
それを止める権利は、
私にはなかった。
「…無理しないでください」
精一杯の言葉。
彼は、
小さく頷いた。
ピアノの前に座る。
姿勢が、
無意識に整う。
背筋。
肩。
指先。
(…覚えてる)
私が1番、
恐れていた事。
鍵盤に、
そっと指が置かれる。
― 音。
― 澄んだ音が、
部屋に落ちた。
空気が、
変わる。
2音目。
3音目。
音が、
“並び”になった瞬間。
胸の奥が、
強く締め付けられた。
(これは)
(知ってる音)
でも、
知ってはいけない音。
彼は、
息を詰めるようにして、
鍵盤を見つめている。
「…音が」
小さく、
呟く。
「…引っ張られる」
「…やめますか?」
私が言うと、
彼は首を振った。
「…怖いけど」
1拍、置いて。
「…懐かしい」
その言葉が、
決定的だった。
彼の指が、
少しだけ速くなる。
でも、
技巧的じゃない。
感覚で、
確かめるように。
音が、
彼の中から溢れてくる。
「…」
私は、
何も言えなかった。
言葉を挟んだら、
この瞬間が壊れてしまう気がして。
最後の音が、
空気に溶ける。
沈黙。
彼は、
ゆっくり手を下ろした。
「…ごめんなさい」
「…どうして謝るんですか」
「…何か、思い出しかけた」
胸が、
ぎゅっと鳴る。
「…名前」
彼は、
小さく息を吸う。
「…“あまね”」
その音が、
はっきり聞こえた。
世界が、
静かに、でも確実に動いた。
「…天音?」
私が、
思わず口に出す。
彼は、
はっとした顔で私を見る。
「…今、そう呼びました?」
「…ごめんなさい」
すぐに言い直す。
「…違いましたか」
彼は、
しばらく考え込んでから、
ゆっくり首を振った。
「…違わない、気がします」
その表情が、
不安と安心の間で揺れている。
「…天音」
今度は、
彼自身が言った。
その瞬間、
指先が震えた。
「…これ、俺の名前、ですよね」
私は、
少しだけ迷ってから、
頷いた。
「…はい」
嘘を、
重ねられなかった。
「…そっか」
彼は、
静かに笑った。
「…じゃあ、少しだけ、戻ってきてる」
“戻る”という言葉が、
胸に刺さる。
「…怖いですか」
私が聞くと、
彼は正直に答えた。
「…怖い」
でも、
視線は逃げない。
「…でも、触れない方が、もっと怖い」
その言葉に、
私は何も言えなくなる。
夜。
彼は、
ピアノの蓋をそっと閉じた。
「…今日は、ここまでにします」
「…はい」
「…花田さん」
「…何?」
「…ありがとうございます」
「…何がですか」
「…止めなかった事」
胸が、
痛くなる。
(止めたかった)
(でも、止められなかった)
布団に入ってからも、
音が耳に残っていた。
1音目。
2音目。
― 拾った音。
それは、
彼が“戻る”ための音であり、
同時に、
私が失う音でもあった。
私は、
目を閉じて、
心の中で小さく祈った。
(どうか、もう少しだけ)
(この時間が、続きますように)
でも、
音は正直だ。
鳴ってしまったものは、
もう、戻せない。
― 鍵盤に触れた指先が、
確かに、
世界を呼び戻していた。