テラーノベル
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# ず っ と 隣 で
8/|/aB(旧アイビー)
6,988
Episode.1
窓の外では鉛色の雲が重苦しく垂れ込めている。室内の空気は澱み、犬の鼻腔を突くのは腐敗とカビ、そして何よりも鼻をつく酸っぱい酒の臭いだ。
「なあ、いいだろ? お前はまた明日適当にゴミでも漁ればいい」
掠れた、湿った声が頭上から降ってくる。飼い主の男は、ろれつの回らない舌でそう言い放つと、使い古されたボウルの中に残っていた最後のカリカリとした乾いた餌を汚れた指先で無造作に掴み取った。
犬こと、バーニーズマウンテンドッグ―名前をゴールディーと呼ぶにはあまりに無機質な日常を送る彼は、その光景をただじっと見つめていた。喉の奥で「クゥン」と小さな音が鳴った。腹の虫が激しく暴れ、胃袋が痙攣するような飢えを突きつけてくる。昨日の夜から何も食べていない。楽しみにしていた、あの一粒の感触。栄養が染み渡るはずだった、あの茶色い粒。
男は、自分の胃を満たすためではなく、ただその「犬の食べ物を奪う」という行為自体に奇妙な満足感を覚えているようだった。男の眼球は異様に充血し、焦点はどこか別の虚空を彷徨っている。彼は餌を口に放り込むと、ボリボリと無遠慮な音を立てて咀嚼した。
犬の目は、男の手元から離れられない。男の顎が動くたびに、ゴールディの耳がぴくりと反応する。悲しいかな、犬の本能は彼に「怒れ」と命じているのに、積み重ねられた暴力の記憶が「耐えろ」と叫ぶ。抵抗すれば、あの重い靴が横腹を蹴り上げることを、彼は身をもって知っている。
「うめえな。犬の餌ってのは、案外味が濃くていいもんだ」
男は下卑た笑みを浮かべ、空っぽになったボウルを無造作に放り投げた。プラスチックのボウルが床で虚しい音を立てて転がる。最後の一粒まで、男の乾いた喉の奥へと消えていった。
男は満足げに立ち上がり、ふらつく足取りで寝室へと消えていく。閉まるドアの音だけが、静まり返った部屋に冷たく響いた。
静寂が戻る。ゴールディはゆっくりと、力なく立ち上がった。四本の足は震え、足腰の筋力は空腹のせいで鉛のように重い。彼はボウルに歩み寄り、冷たく乾いた底を何度も何度も、熱を帯びた舌で舐め回した。
残っているはずもない。油分と、粉々になった破片すら、男の唾液と混ざり合って消え失せている。それでも彼は、そこに微かに残る「かつてご飯があった記憶」を舐め取るしかなかった。
窓から入り込む冷たい隙間風が、彼の被毛を揺らす。暗闇の中、彼はうずくまり、ただじっと自分の腹に力を込めた。空腹は、もう痛みを超えて、内側から自分自身を食い荒らしているような感覚だった。
明日の朝、男が目覚めれば、またこの地獄の続きが始まる。それでも、彼はこの家を離れることができない。
彼は小さく丸まり、震える体で、来るはずのない満腹を夢見る。夢の中なら、誰にも奪われない、温かい肉が食べられるだろうか。そう願いながら、彼は瞳を閉じ、ゆっくりと、しかし確実に、死へと向かう時間をやり過ごすしかなかった。
___________________
男が奥の部屋で昏倒したような静けさに紛れ、ゴールディは這いずり出した。空腹の痛みで視界がチカチカと明滅する。彼は薄暗い廊下の隅、床下に隠してあった「聖域」へと向かった。
そこには、隙間から引きずり出した餌袋の端が、噛みちぎられて無造作に放置されていた。彼は犬歯で器用に袋の口をこじ開ける。湿気を含み、少しだけ硬くなった茶色の粒。それは彼にとって、この世で最も尊い宝石であり、生命線だった。彼は慎重に、かつ貪欲に、一粒、また一粒と咀嚼した。硬い歯ごたえが脳を揺らす。このささやかな盗みが、男の理不尽な飢餓からゴールディをわずかに引き離してくれていた。 しかし、日常は確実に蝕まれていた。男の狂気は、もはや単なる虐待の域を越え、異様な変容を見せ始めていた。
ある日の夜、男は台所に立ち、異様な熱狂とともに調理を始めた。換気扇の鈍い回転音に混じり、金属が床を擦る鋭い音が響く。男は、かつて自分が食べていた食材を調理しているのではない。壁に張り付いた古いカレンダーや、拾ってきた木の枝、果ては庭の湿った土までもを鍋に放り込み、得体の知れない「何か」を煮詰めていたのだ。
「これで完成だ。最高のご馳走だぞ」
男は鏡に向かって独り言を呟き、皿に盛り付けられた泥と紙屑の塊を、恍惚とした表情で見つめている。彼の瞳はもはや人間のものではなく、深淵を覗き込むような深い闇を湛えていた。男の精神は、現実という輪郭を失い、幻覚の荒野を彷徨っている。
ゴールディは薄闇の中からその様子を凝視していた。男は時折、振り返っては何もない虚空に向かって「さあ、食えよ」と笑いかける。その矛先が自分に向けられた時、ゴールディは背筋に冷たい電流が走るような恐怖を感じた。男の狂気は増幅し、支配的な暴力から、理解不能な儀式へと形を変えていた。
男は次第に言葉を失い、代わりに「歌」を歌い始めた。それは旋律を持たない、単なる叫びと唸りの混じった不快な音の羅列だった。深夜、男はその歌を響かせながら、部屋の壁に鋭利な何かで無数の線を引き始めた。壁一面に刻まれる傷跡は、まるで何かを封印するための呪文のようだった。
ある日、男はゴールディの目の前で自分の腕を噛み切ろうとした。自傷の痛みすらも男にとっては幻覚を補強するための儀式の一環だった。血が滴り、床に黒いシミを作る。その鉄錆のような匂いに、ゴールディは本能的な忌避感を覚え、暗い部屋の奥へと後ずさりした。
男はもう、ゴールディを「自分の所有物」とすら認識していないのかもしれない。ただ、部屋の中に「自分以外の何かが存在している」という事実に怯え、あるいは何かを崇拝し、狂ったように壁を叩き続ける。
ゴールディは隠した餌袋の残り香を頼りにその夜をやり過ごした。彼は知っている。この男が次に何をするか、予測不能であるということを。男の瞳に宿る暗い光がいつ自分をターゲットにするか分からない。
部屋の壁に刻まれた傷が増えるたびに、男の人間としての輪郭は薄まり、代わりにより濃い狂気が居座る。ゴールディは喉の奥で小さく唸った。それは男への反抗ではなく、迫り来る終わりに対する、動物としての野性的な警告だった。男の狂った歌声が深夜まで響く中、ゴールディは餌袋の破片を抱きしめるようにして、ただじっと朝を待った。明日は、男が壁を突き破って外へ出ていくか、それともこの部屋ごと彼を飲み込んでしまうのか。どちらにせよ、二人の歪んだ共生関係は、臨界点へと向かって加速していた。
Episode.2
朝日が差し込む部屋は、昨日とは比べ物にならないほど異様な空気に満ちていた。壁一面に刻まれた無数の傷跡と、男が夜通し口ずさんでいた不協和音が、室内の重力を歪めている。
男――20代後半の、かつて人間だった残骸は、Amazonの段ボール箱を狂ったように引き裂いていた。中から転がり出てきたのは、艶やかなフェイクファーで作られたカチューシャと、先端に奇妙な重みを持つ銀色のアナルプラグだった。
「なあ……犬っていいよな」
男が独り言のように呟く。その声には、理性が崩壊した人間特有の、底なしの虚無感が混じっていた。
「ずっと腹を空かせて、誰かに繋がれて、誰かの言いなりになる……それって、最高に楽だと思わないか? 俺も、犬になってみたいわ」
男は震える手で、獣の耳を頭に装着した。そして、続いてベルトを外し、手に取った金属の異物を自分の身体へと強引にねじ込む。鋭い痛みが走ったのか、男の顔が歪み、喉の奥から獣のような呻き声が漏れる。脂汗を流しながら、彼は顔を真っ赤にして何度も喘いだ。その光景は、犬であるゴールディにとっても理解不能な、不快でグロテスクな「儀式」にしか見えなかった。
ようやく装着を終えると、男はよろめきながら立ち上がり、ゴールディの目の前でわざとらしくポーズをとった。尻尾が不自然に揺れる。
「どうだ? 似合ってるか?」
男は恍惚とした瞳で、ゴールディの反応を伺う。鏡に映った自分の姿を、神か何かだとでも勘違いしているような、焦点の定まらない笑顔。
「俺、イケてるだろ? こんなにイケてる犬、他にはいないと思うんだよ。なあ、お前もそう思うだろ?」
男は荒い息を吐きながら、突如としてゴールディの目の前に崩れ落ちるようにして身を委ねた。無防備に晒された男の身体は、期待と狂気で震えている。
「……なぁ、俺を抱いてくれよ」
男の口から吐き出されたその言葉は、ゴールディの理解の域を完全に超えていた。
ゴールディはただ、呆然と固まるしかなかった。昨日まで自分を飢えさせ、自分の食事を奪い尽くしていた虐待者が、今は自分と同じ「犬」のふりをして、性的な悦びと支配を求めている。その混沌とした要求に、ゴールディはどう反応すべきか分からない。逃げ出そうにも、鎖が首に食い込んで動けない。
喉の奥で「ウゥ……」と、低く困惑した唸り声が漏れる。自分を食い荒らした男が、今度はその異常な姿で自分に縋り付いている。恐怖と嫌悪感、そして男の身から漂う湿った狂気の臭いに、ゴールディはただ身を縮め、男が次の奇行に走らないよう、ひたすら息を潜めるしかなかった。
「……おい、なんで抱かないんだよ!」
男の甘えたような声は、瞬時に獣の咆哮へと変わった。期待外れの反応に、彼の精神の脆弱な均衡が崩れ去る。
男は狂ったように咆哮しながら、困惑して動けないゴールディの体に飛びかかった。床に押し付けられたゴールディの肋骨が、みしりと音を立てる。男の顔は、怒りと、欲望と、そして自分を受け入れない世界への憎悪で歪んでいた。
「なんで! 俺は犬だろ! 犬同士なら、こうするもんだろ! この……ッ!」
男がゴールディの首を絞め上げようとした、その瞬間だった。
「あっ、そうだ!!! TikTok撮ろう!」
男の手が止まる。その表情は、まるで雷に打たれたかのように、突如として無垢な、邪悪な子供のような笑顔へと一変した。怒りも、性的興奮も、全てが霧散し、代わりに「承認」への飢餓が男を支配する。
彼はゴールディを乱暴に放り出すと、這いつくばって部屋の隅にあるスマホ台へと向かった。スマホをセットし、画面の中に映る「犬の耳としっぽをつけた自分」を確認する。
「よし、これで完璧だ。みんな、俺が犬になったって知ったら、きっと驚くぞ……!」
男はカメラに向かって、奇妙に歪んだ笑顔を作り、そして踊り始めた。それはダンスと呼ぶにはあまりに不恰好で、旋律を持たない男の「歌」に合わせた、痙攣のような動きだった。しかし、男は自分がこの世で最も魅力的なダンサーであると信じ切っていた。尻尾が不自然に揺れるたび、彼は満足げにカメラにウィンクを送る。
撮影を終えると、彼は震える指で動画を投稿した。
「……どうだ、みんな? 俺の勇姿を見てくれ!」
男はスマホの画面を凝視する。その瞳には、現実の景色ではなく、彼が見たい幻想だけが映っていた。
数分もしないうちに、画面の通知が鳴り響き始めた。いいね、コメント、リポスト。その数は瞬く間に膨れ上がり、動画は男の想像を超えて「伸びて」いった。
「……きたッ! きちゃったよ! 俺の魅力が、世界に認められたんだ!」
男はスマホを抱きしめ、狂喜乱舞した。彼はゴールディの元へ駆け寄ると、画面を強引に突きつける。
「見ろよ! ほら、俺をバカにしてたお前も、これを見たらひれ伏すだろ! 俺は、選ばれた存在なんだ!」
男はそのまま、コメント欄を開いた。彼はそこにある言葉を、自分の勝利を称える賛辞として、全て自分に都合よく解釈していた。
『気持ち悪…』
「(ゾクゾクするほど)格好いい……」
『朝から吐き気起こすわ』
「(朝から俺の魅力に)クラクラするわ、最高!」
『障害やん』
「(常人離れした)天才やん、カリスマ!」
男の瞳は、現実の残酷なアンチコメントを通過させず、彼自身の肥大した自己愛によって生成された「褒め言葉」だけを捉えていた。彼は画面に向かって「ありがとう、みんな! 俺は、お前たちの期待に応えて、これからも犬として生きていくからな!」と、狂気じみた笑顔で感謝を述べる。
ゴールディは、男が指差すスマホの画面を、そしてその向こう側にある狂気の深淵を、ただじっと見つめていた。男の目はもう、この世界を見ていない。彼は、自分自身の脳内に作り上げた、自分だけが神である王国の中に、完全に閉じ込められていた。
コメント
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うわ…これはずっしりくる話だったね。犬のゴールディの視点で描かれる飢えと恐怖が、文章からひしひしと伝わってきたよ。特に「餌の記憶を舐め取る」っていう表現が胸に刺さる。飼い主の男が徐々に正気を失っていく過程も、不気味で目が離せなかった。Episode.2で犬のふりをして自分を捧げるシーンにはゾッとしたけど、ゴールディの困惑した「ウゥ…」という唸りに、こっちも同じ気持ちになったよ。この歪んだ共存関係がどう転ぶのか、続きがすごく気になるな。