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月曜日。浮かない気分のまま出社すると、受付嬢と楽しげに談笑する瀬名の姿が真っ先に目に飛び込んできた。
「――っ」
昨夜、彼をオカズにしてしまったことへの猛烈な気まずさと、また別の女と親しげにしていることへの苛立ち。正反対の感情が同時に押し寄せ、理人は反射的に顔を逸らした。逃げるように足速にエレベーターへと駆け込む。
自分は一体、何をやっているんだ。 完全に悪循環だと分かっていても、今の理人にはまともに瀬名を見る勇気すら持てなかった。 このままではいけない。だが、どう振る舞えば正解なのかも分からない。とりあえず平常心を装わなければ、鋭い部下たちに悟られてしまう。
深呼吸をひとつ。ざわつく心臓を宥めるように息を整えると、理人はゆっくりとオフィスのドアを開いた。
「おはようございます、部長」
「あぁ」
オフィスを見渡すと、数名の社員が既に出勤していた。係長の朝倉も席にいたが、浮かない顔でモニターを睨んでいる。声をかけるべきか一瞬迷ったが、今は自分のことで手一杯だ。理人は見て見ぬふりをして自席に腰を下ろした。
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。上司である岩隈専務からのメッセージを見つけ、理人は思わず眉間に深い皺を刻んだ。 内容は、大阪支社への出張依頼。現状把握と新商品情報の共有、さらにシステム構築のために社員を一人派遣しろ、という。 しかも「人選は一任する」と、ご丁寧に付け加えられていた。
(この年末のクソ忙しい時期に……! しかも明日から一週間だと? んなもん、誰も行きたがらねぇに決まってんだろ!)
内心で毒づきながら、理人はフロアを見渡した。 朝倉は頼りなすぎて論外。仕事の効率、プレゼン能力、商品知識で考えれば、候補は萩原か瀬名に絞られる。だが萩原は新婚旅行中で不在だ。……となれば、選択肢は必然的に「瀬名」しか残っていない。
「……ぅ〜ん……」
自分が行くことも検討したが、課長の仕事まで兼任している現状、物理的に不可能だ。 頭を抱えて唸っていると――。
「ふふっ。うんうん唸って……便秘ですか?」
「あ? 違うに決まって……ッ!」
突然背後から声をかけられ、理人は椅子から飛び上がるほど驚いた。振り返ると、いつの間にか真後ろに瀬名が立っている。
顔を見た瞬間、昨夜のリビングでの痴態が脳裏をフラッシュバックした。視線がぎこちなく泳いでしまったのは、もはや生存本能に近い拒絶反応だった。
(――やばい。これじゃ「何かありました」って自白してるようなもんだ……!)
言葉が出ない。出張の話を切り出さなければならないのに、喉が張り付いて音にならない。 そんな理人の異変を察したのか、瀬名がふと身を屈めた。至近距離でパソコンの画面を覗き込む。
「へぇ、出張ですか……。しかも一週間」
理人のモニターを至近距離で覗き込んだ瀬名が、軽い調子で呟いた。
「……あぁ」
動揺を悟られまいと小さく息を吐き、理人は仕方なく瀬名と向き合う。
「こんな時期の出張だし、おまけに急だ。……皆、嫌がるんじゃないかと思ってな」
「僕、行ってもいいですよ」
――え?
絶対に文句の一つも言うだろうと思っていた理人は、あまりに意外な即答に一瞬言葉を失った。
瀬名はごく自然な表情で、まるで大したことではないかのようにさらりと口にする。
承諾された安堵よりも、戸惑いと「寂しくないのか」という複雑な感情が理人の胸をかすめた。
「ちょうど、抱えていた案件が一区切りつきそうだったんです。それに――」
瀬名がふと身を低くし、理人の耳元に熱い吐息を吹き込んだ。
「どうせ、あと一週間は理人さんに触れない決まりですから」
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
「……我慢できる自信がなかったから、ちょうどいいです」
そう付け加えて悪戯っぽく笑う瀬名の横顔に、理人は一瞬呼吸を忘れた。
つまり、この一週間彼がぴたりと触れてこなかったのは……理人がヤケクソで出した「禁止令」を、馬鹿正直に守り抜こうとしていたということなのか。
金曜日にさっさと帰ってしまったのも、他の女と話していたのも、すべては「理人に触れたい衝動」を逸らすための必死の抵抗だったとしたら?
(……あんなもの、反故にしてくれてもよかったのに)
危うく口に出しそうになった軟弱な本音を必死で飲み込み、咳払いをひとつ。瀬名から視線を無理やり外す。
「……詳しい資料はお前のPCに送っておく。後で確認しておいてくれ」
「わかりました」
瀬名はそれだけ言うと、あっさりと自席に戻っていった。 残された理人は、自分がどれほど愚かだったかを思い知らされる。瀬名を信じきれず、勝手に「飽きられた」と疑心暗鬼になっていたのは自分の方だ。
女性と楽しそうに話す姿ばかりが目に付いて、胸を痛めていた時間がひどく滑稽に思えてくる。……嫌われてなどいなかった。
それどころか、彼は今も自分を求めて苦しんでいたのだ。 そう確信した瞬間、安堵と共に胸の奥がじんわりと温かな熱を帯びる。
緩みそうになる頬を必死に引き締め、理人は出張のファイルを瀬名へ転送した。キーボードを叩く指先が、先ほどまでとは見違えるほど軽くなっていた。