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「んわぅなあぉおほもぅ」
私の口から出たそれは、声と呼ぶにはあまりにも曖昧で息の籠もっていない。何かの暗号のようなただの奇怪な音だった。別にふざけてそうしたのではない。ただ舌を回すのに必要なほどの空間が口の中で確保されていなかったのだ。そう、あれは今に頬が破れてしまうのではと思えてしまうほど、口いっぱいに食べ物を頬っばって出した声だった。林檎に梨に蜜柑。様々な甘みが舌の上で混在している。美味しいかと聞かれれば多少迷ってしまうが、少なくとも普段食べている消費期限ギリギリの缶詰よりかは幾分かマシだ。唇で挟んだ多数の栄養ゼリーを握りしめ、一気に口へと送り出す。そしてそしてそれらを、スポンジが水を吸うかのように飲み込んだ。
「どうすれば良いと思う?」
「ええっとね……。ごめんサナちゃん。何の話だったけ?」
「不知火さんの事だよっ。呼ばれたって言ったじゃん! まさか聞いて無かったの!?」
アカリは蒼く光る空に、右手の人差し指を突き刺して間抜けそうに『あーね』と応える。目が誰から見てもわかるほどに泳いでいて、彼女が嘘を付いた事は明白だ。まあ、正直者の彼女が嘘など付けられない事は以前より重々承知だったが。実際に目の辺りにすると、つい毎度驚いてしまう。左手にあるのは、私が先ほど飲み干したゼリーのアカリ分。おそらくは食べるのに夢中で、私の声は彼女の脳を通ること無く、耳を突き抜けてしまったのだろう。
「まあ、フツーに行けばいいんじゃね」
「……何カッコつけてんのさ」
今のはリュウトの言葉に対してカッコつけていると言ったのでは無い。彼は本当に憐れなほど粋った姿をしている。アカリの後ろの金網に体重を預け、足を組んで、わざわざ腕をクロスして栄養ゼリーを口にして。呆れた。どうして男はいつもこうなのだろうか。いや、私は彼以外の男とは会ったことが無いのだが。それでもこの好きな相手の前で粋がるこの様子を見ればなんとなく、私には理解出来無いからこそ、男特有の習性なのだろうとは思える。
「良いだろ、別にちょっとくらい」
「まあ、リュウトの自由ではあるけどさ……」
「それよりもだ。何迷う事があるんだ? 呼ばれたなら、行けば良いだけだろ」
リュウトの言った事に関しては間違いは無い。ただ私はそれで納得する事は出来なかった。今こうして実際に誰かに話した事で理解できた。私が迷っている事は行くかどうかなどでは無いのだと。もっと深いところ。何故人と関わりたがらない彼女が呼んだのか、何故私なのかというような事なのだと。しかし結局のところ、この答えは実際に合わなければわからない事。そこまでわかった上で何かが彼女と話す事を、私を縛り付けている。不安と恐怖。そんな当たり前の感情が私を躊躇させているのだ。
「だって……刺されるかもしんないじゃん」
「はあ?」
不思議な事に、こうしてボロボロの校舎の屋上で呑気にランチをしているような私は、今までの人生で感じた事が無いほどの恐怖を覚えていた。ここからは、街の様子がよく見える。ほとんどの建物は既に残っておらず、どこが道だったのかすら分からぬほどにその残骸が散乱している。かつて人だったモノが、瓦礫の隙間から腕なんかを見せている事もよくある。凶暴な鼠や猫なんかの猛獣が辺りを彷徨いていて、安全な場所などどこにも無い。明日も今日も、一秒先にだって同じ姿の私がいるとは限らない。そういう生死を彷徨う毎日。
いや、それはでも昔の、悪魔の侵攻が始まる前だって同じであったのかもしれない。一見して平和な世界でも、毎日世界の何処かでは人が殺されたり死んだり。きっとそうだったはずだ。だって、未来は何時だって未知であるのだから。たまにわからなくなる。自分が今、どこへと向かっているのか。私たちは悪魔から世界を守るために、世界を取り戻すために潜在能力――セクトを目覚めさせるために勉学に励んでいる。それでも、わからなくなるのだ。この先に平和はあるのか。平和は存在するのか。そんな考えてもどうしようも無い壁にぶち当たるのだ。
そのような事を考える内にだんだんと、自分の悩みなど小さなどうでも良い事のように思えてきた。私は今日、死ぬかもれない。だがそれは今日に限った話なんかでは決して無い。どんな瞬間だってそうだ。人は生物である以上、死と共に暮らさなければならない。
「たぶん、大丈夫よ。不知火さんは良い人だもの」
「……そうだね」