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#さくいわ
桔梗
35
ゆき
433
俺の人生の終わりを告げたのは、ただの一本の電話だった。暖房の乾いた空気で唇が乾燥していたのを今でも鮮明に覚えている。恋人の佐久間大介との共通の友人である阿部から突然電話がかかってきて、濡れた髪をタオルで拭きながらぼーっとしていた俺はすぐに応答ボタンを押した。その電話の理由なんて一ミリも考えていなかった。「もしもし、阿部どうした?」そんな間延びした俺の声を掻き消すように阿部は「今どこ!?」と焦燥した声で叫んだ。ただ事じゃない。そう察するのは容易だった。流石に、そこまで鈍くはないし、もう子供でもなかった。
「家だけど」
俺はそっと独り言のように呟く。なにか嫌なことがあった。それを教えてほしい、けれど、知りたくない。そんな感情に挟まれて呼吸が浅くなる。途端に思考が急速に回転しだして思いつくだけの嫌な予感を全て脳内に広げた。どれだ、今はどれだ。冷静で穏やかな阿部がこれだけ取り乱すこと。俺の安否を開口一番に確認してくるようなこと。どれ、……どれも聞きたくない。徐々にではなく、緊急停止するかのように突然駆け回っていた思考は足を止めた。そして、崩れ落ちた。
「……佐久間が、亡くなったって」
どん。鈍器で頭を殴られたような感覚、だなんてよく比喩されるけれどそれは正しい表現だったんだと知った。呼吸も時間も思考も、全てが止まる。冬の寒さに凍てついた水のように、俺は動きを止めた。かろうじて耳元で「もしもし? 照??」と阿部の心配そうな声が聞こえる。それも、だんだんと遠くなっていった。あぁ、死んだのか。あいつ。傍にいた野良猫に逃げられたとか、ティッシュを入れて洗濯してしまったとか、「最近運悪いんだよねぇ〜」なんて笑ってたもんな。……まだ運、悪かったのか。
ガタンっという音で少しだけ意識が浮上する。音のした方へ目を向けると、床にスマホが落ちて画面のフィルターにヒビが入っていた。足元から阿部の声がするのもどうでもよくなって、俺はソファに座ったまま小さく足を抱え込んだ。こうしていれば「ひーちゃん! どうしたの〜!」って佐久間が後ろから抱きしめてくれる。俺より小さくて綺麗な手で頭を撫でてくれる。俺が好きな声で名前を呼んでくれる。……呼んでくれる、はずなのに。
瞼が濡れた。泣いている、というより目から水が溢れ出て止まらないような感覚だった。俺はそのまま顔を上げてカーテンのかかったベランダを見た。嫌なことがあると煙草を吸いたくなって、ベランダに出て。吸ってる最中にぼんやりとしてきて、下を覗いて、あぁ今死んでもいいかもな、なんて思って。そうしていると俺に気づいた佐久間が後ろから優しく抱きついてきて「俺を一人にするのー?」なんて言って、振り向いたら優しく微笑んで毛繕いのようなキスをしてくれる。そのいつもは、どこへ行ってしまったの?
俺は傀儡のように無意識に立ち上がって、フラフラとベランダの方へと歩いていた。そっとカーテンに手をかける。それでも、開く勇気が出ない。今外へと出てしまったら、きっと俺は。そう分かっているから、どうしようもなく怖かった。気がついたときには、その場に崩れるように座り込んでいた。今度こそ泣いた。悲しくて、悲しくて、痛かった。
◇
葬儀は座っていたらいつの間にか終わっていた。最後に見た花に埋もれた佐久間の顔は思い出せない。佐久間の家族は、結婚もしていない、というか男同士で付き合っていただけの俺を優しく抱きしめてくれた。なにか暖かく声をかけてもらった気がしたけれど、何を言われたのかは分からなかった。葬式には見知った顔の友人たちも参列していて、中には珍しく泣いてるやつもいた。なんでそんなことは覚えていて、肝心なことは忘れているのか、自分でも分かっていない。今の自分は、自分のものではなくなっているようだった。
冬の空気は冷たくて、どこか虚ろで。それでも佐久間は好きだと言っていた。なんで好きなの? と聞いたことがある。……佐久間は、なんて答えたんだっけ。体脂肪率が低いせいで俺は寒いのが苦手だったけれど、佐久間は俺に体温を分け与えてくれた。一人が苦手な俺の傍に、いつもいてくれた。すぐ拗ねるところも、言葉足らずなところも、愛情に素直になれないところも、全部かわいいって言ってくれた。言ってくれた、よな?
「照」
ぼんやりとしゃがみ込んで壁にもたれかかっていると、阿部に声をかけられ手を差し伸べられた。俺はその手を取りたいのに、なぜか身体が動かなくてじっとしていた。ごめん、そう言いたいのに声も出ない。やがて俺は友人たちに身体を抱きかかえられてやと立ち上がった。それでも、フラフラとして立つだけでも必死だった。
「おい、照。大丈夫かよ」
「……ぁ、ぃぉ」
「翔太『大丈夫』だって。まぁ大丈夫ではないけど」
「照、ご飯食べれてないでしょ。頬痩けてるよ」
俺をそっと支えてくれている渡辺翔太と宮舘涼太、阿部亮平は同じ大学の生徒で、翔太は佐久間と同級生の一つ上、阿部と舘さんは俺と同じ学年だ。何かを話しているのはわかるものの、上手く言葉が聞き取れない。自分にわからない言語を三人が話しているような感じだった。俺は次第に足の力が抜けてしまって、再び元の体勢に戻ってしまった。いつもの癖で、小さく小さく身を縮めてしまう。そうすれば、ふと全てが嘘のように佐久間が戻ってきそうな気がしていたから。
「あ、いたいた。佐久間のお母さんが呼んでたぞ」
「わかった。……照、ちょっと行ってくるよ」
「ここにいろよ。……誰かいたほうがいいか」
そう言う翔太に俺は控えめに首を横に振る。そうすると、四人は少し心配そうに顔を見合わせてから何かを話していた。結局、俺の横には深澤辰哉が残って阿部と翔太はどこかへ行った。
阿部と翔太と舘さんは元々佐久間の友達で、俺と佐久間が仲良くし始めた頃に現れて親しくなった。三人とも、俺たちの交際に関しては何も言わず普通に受け入れてくれていたと思う。今隣にいるこの男、ふっかは高校からの俺の親友で、俺がゲイであることを初めて打ち明けた人だった。佐久間たちと同い年で、出会ってからすぐに打ち解けていた。
「あいつ、最期のときもピアスつけてたってよ。さっきお母さんから聞いた」
その話を聞いて俺はそっと右耳に手を伸ばした。ロブに付けられたピアスに触れる。付き合って一年の記念に二人で贈りあったピアスだった。俺は黄色い宝石で、佐久間のはローズクォーツ。茶色い髪から見え隠れするピンク色のそれはとても似合っていた。こんな些細なことでさえ過去形になってしまう現実が、耐え難いほどに辛い。俺はぼーっとしたまま空を見上げた。どこを見ても灰色の雲が世界を覆っていて、空気が重たい。重力に流されるままにふっかの方へと倒れ込むと、何も言わずに支えてくれた。
はやく帰りたい。そう思った。けれど、どこに? 誰もいない部屋でも、実家でもない。……どこにも、帰る場所がない。そう気づいた途端、心に空いていた穴がぐちゃっと広がった。
「……うみ」
「ん? どうした照」
「海に、いきたい」
無意識に出てきた言葉だった。なぜそう思ったのか、何がそう思わせたのか、検討もつかない。だけれど、そこだけが自分の居場所のような気がしたのだ。ふっかは少し悩んだ後、「今は危ないからやめておこうか」と俺の背中を優しく撫でた。そして「今日は荒れるらしいから、近づいちゃダメだよ」と大人が子供に注意をするような声で言ってきた。
俺は再び空を見上げる。ぽつりと、雫が喪服を濡らした。
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