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第19話 『春風と置き忘れた記憶』
その年の桜は、少し遅れて咲いた。
三月の終わりになってようやく、
商店街の並木が淡い桃色に染まりはじめた。
花びらはまだ少ないけれど、
風が吹くと、ひとひら、ふたひらと舞う。
喫茶猫又亭の引き戸が、静かに鳴った。
カラン。
入ってきたのは、大学生くらいの青年だった。
少しよれたシャツに、くたびれたリュック。
髪は寝癖のままで、どこか疲れた顔をしている。
「いらっしゃい」
カウンターの奥で、たまが言った。
青年は少し迷ってから、窓際の席に座る。
「……コーヒー、ください」
「猫又ブレンドでいいかい」
青年はうなずいた。
ストーブはもう片付けられているけれど、
店の中は春の陽射しでやわらかく温まっている。
コーヒーの湯気が、ゆっくり立ちのぼった。
青年はそれをぼんやり眺めている。
看板猫のクロが、椅子の下からのそりと現れた。
二つに分かれたしっぽが、ふわりと揺れる。
青年の足元で、ころんと寝転がった。
「……猫」
青年は少しだけ笑う。
「この店の看板猫さ」
たまがカップを置く。
「春はね、猫も人も少し気が抜ける季節なんだよ」
青年はコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。
でも、どこか落ち着く味だった。
しばらくして、青年はぽつりと言った。
「……この店」
「昔、来たことある気がします」
たまは少し首をかしげる。
「そうかい?」
「子どもの頃に」
青年は窓の外の桜を見ている。
「たしか、母と」
その言葉は、どこか遠くを見るようだった。
「でも、もう覚えてないんです」
クロが、ぴくりと耳を動かす。
「忘れちまったのかい」
たまが静かに言う。
青年は苦笑する。
「はい」
「母が亡くなってから」
「子どもの頃のこと、あんまり思い出せなくて」
窓の外で、花びらがひとつ落ちた。
「でも、なぜか」
青年は店の中を見回す。
「ここに来なきゃいけない気がして」
たまは少しだけ笑った。
すると突然クロが立ち上がる。
そして、店の奥へと歩いていく。
「……あら」
たまが小さく言った。
「どうやら、“置き忘れた時間”が呼んでるみたいだね」
青年は首をかしげる。
「?」
数分後。
クロは何かをくわえて戻ってきた。
古い、木の箱。
少し埃をかぶっている。
たまはそれを受け取った。
「これ、覚えてるかい」
青年は首を振る。
箱を開ける。
中には、小さな折り紙の鶴が入っていた。
そして、紙切れ。
震える字で書かれている。
「だいすきだよ はるきへ」
青年の手が止まった。
「……これ」
声が、少し震える。
「昔ね」
たまが静かに言う。
「桜の日に、君はここに来たんだ」
青年は顔を上げた。
「小さな子どもでね」
「母親と一緒だった」
クロは椅子の上で丸くなる。
「そのとき、この箱を置いていった」
「“また来るから預かっていて下さい”ってね」
青年は紙を見つめている。
記憶の奥が、少しだけ揺れる。
桜の花びらが、窓に当たった。
その瞬間。
ふいに、思い出した。
小さな自分。
母の手。
この店の匂い。
団子の甘さ。
笑い声。
「……あ」
青年の目が見開かれる。
「思い出した」
声が、震えている。
「母が」
「桜を見るたびに、ここに来ようって」
たまは微笑む。
「忘れちまうこともあるさ」
「人の心は忙しいからね」
青年は、折り鶴をそっと握った。
「でもね」
たまは続ける。
「大事なものは」
薪をくべるような穏やかな声で言う。
「春になると、芽を出すもんなんだ」
青年は長く息を吐いた。
そして、少し笑った。
「……また来ます」
「次は、忘れないように」
「そうしな」
たまはうなずく。
「猫又亭は、思い出の休憩所だからね」
カラン。
扉が閉まる。
外では、桜が舞っていた。
青年は空を見上げる。
折り鶴をポケットにしまう。
クロは窓辺に座り、目を細めた。
「春はね」
たまがぽつりと言う。
「忘れものが帰ってくる季節さ」
桜の花びらが、またひとつ舞い落ちた。
猫又亭の灯りは、今日もやわらかく揺れている。
まるでこう言うみたいに。
「おかえり」
※次で最終回です!