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#シリアス
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ひまりは「おじさんのハンバーグ、世界一!」と屈託のない笑顔で笑い、皿の上の野菜まで綺麗に完食しおった。
その弾けるような笑顔を、穏やかな寝顔に変えるまで。
俺はひたすら、血の匂いを一切感じさせない「優しいおじさん」を演じきった。
あの子に語る未来の話に、暴力の破片など一欠片も混じらぬように。
◆◇◆◇
午後11時
ひまりの部屋の灯りが消え、静かな
規則正しい寝息が聞こえてくるのを壁越しに確認してから
俺は居間のソファに置いていた漆黒のジャケットを羽織った。
「……兄貴、準備整いました。若い衆、既に裏に回らせてます。いつでも行けます」
和幸が低い声で告げる。
その横顔には、いつものお調子者の影は微塵もない。
俺は無言で頷き、使い古された短刀を懐へと忍ばせた。
日常生活用の眼鏡を外し、予備の、より焦点の鋭い戦闘用に掛け替える。
刹那、世界がより鋭く、冷酷な輪郭を持って俺の瞳に映り込んできた。
「……行くで。掃除の時間や」
事務所の裏口から、夜の闇へと滑り出す。
雨上がりの湿った空気が、これから始まる惨劇を予感して火照り始めた体に、冷たく心地いい。
向かう先は、蛇頭会が根城にしている、腐った油のような臭いのする雑居ビル。
あいつらは、ひまりという「光」に、その汚れた指先を伸ばそうとした。
その罪の深さは、指を詰めるだのシマを明け渡すだの、そんな生易しい落とし前で済むもんやない。
「……和幸。お前は表で待機や。中にはワシ一人で入る。一匹も逃がすなよ」
「えっ!?兄貴、いくらなんでもそれは無茶っすよ!相手は十数人はいますし……!」
「ひまりが明日、起きた時に。ワシが一点の曇りもない顔で『おはよう』と言えるようにするためや。……お前は、ワシが必要以上に血を被りすぎんように、門番でもしとけ」
ビルの前に着くと、案の定、見張りの男たちが二人、虚勢を張って立っていた。
だが、俺がただ無言で歩み寄るだけで
あいつらの顔は、まるで死神を間近で見たかのように恐怖で引き攣った。
「黒龍院の狂刃」が、本気で獲物を――
害虫を狩りに来た時の目を知っとるんやろう。
声を出す暇も与えず、急所に拳を叩き込み、一瞬で沈める。
埃っぽい階段を音もなく駆け上がり、最上階の組長室のドアを蹴破るまでもなく静かに、だが威圧的に開け放った。
「……夜分に失礼。黒龍や。不作法な訪問、堪忍な」
部屋の中にいたのは、酒の匂いをプンプンさせた蛇頭会の幹部連中。
一斉に立ち上がるあいつらに対し、俺は短刀を抜くことさえせず
ただ真っ直ぐに、最奥で震えを必死に隠している男を見据えた。
「お前らが何をしようが勝手や。好きにのたれ死ね。やがな……あの子の学校を、その汚れた鼻で嗅ぎ回るんは、ワシのシマを土足で踏み荒らすのと同じやぞ」
怒号を上げる隙さえ与えへん。
俺の動きは、自分でも驚くほど淀みなく、速かった。
机を蹴り飛ばし、最短距離で敵の懐に潜り込み、無力化していく。
鈍い打撃音、骨の砕ける嫌な音、床に転がる男たちの呻き声。
だが、そんな騒乱の中でも、俺の心は驚くほど静寂に包まれていた。
頭の中にあるんは、ひまりが昨日貼ってくれた、あの不器用で、少し斜めにズレた絆創膏の感触だけや。
「……これ以上、あの子の視界に入るな。次があったら、この街から消えるだけじゃ済まさへんで」
ボロボロになり、床に這いつくばる蛇頭会の連中を氷のような目で見下ろし、俺は最後に短刀を鞘に収めた。
結局、刃を汚すことはなかった。
ひまりが「なりたい」と言った、人を救う医者という夢をこれ以上汚したくなかった。
◆◇◆◇
事務所に戻ったのは、午前三時
誰にも見られぬよう、念入りに、執拗なまでにシャワーを浴び、こびり付いた血と硝煙の匂いを消し去る。
ひまりの部屋をそっと、息を殺して覗き込む。
この子はまだ、幸せそうな、明日の朝食を心待ちにしているような顔で夢の中におった。
俺は自分の部屋へ戻り、不器用な手で、ひまりがくれたあの絆創膏を頬の小さな傷に貼り直した。
少し粘着力が落ちてきとるが、それがいい。
(……ひまり…)
明日もまた、何事もなかったかのような平和な朝が来る。
ワシが地獄の泥沼でどれだけ泥を被ろうとも、この子が歩く道だけは
真っ新なアスファルトみたいに綺麗に、平らに整えておいてやらんといけん。
それが、この街を裏から支配する者としての唯一の、譲れん矜持や。