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騒然とする患者や看護師たちを宥めながら、亮介は階段を下りて行った。三階の内科病棟から二階へ降りようとしたところで、亮介は眉をひそめて耳を澄ました。咳き込む声が聞こえて来た。
内科の入院病棟なのだから、それ自体は不思議な事ではない。だが聞こえてくる咳の数が尋常ではないと感じた。まるで夏の田んぼのカエルの鳴き声のように、何十もの咳の音が重なり合う様にいつまでも響き続ける。
亮介が気になって病棟へ足を踏み入れると、ベッドの上の患者はもちろん、廊下に寝かされた患者たちが何十人も体全体をエビのように折り曲げて苦しそうに咳き込んでいる。女性の看護師たちが亮介を見つけて狼狽しきった様子で懇願した。
「牧村先生、ちょっと見て頂けませんか? 内科の先生たちは今透析室にかかりきりで」
亮介はうなずいてすぐに、床の上の一番近くでひどく咳き込んでいる高齢の男性患者の側に膝をついた。津波からかろうじて生還した患者たちの一人で、体はお湯で拭き入院患者用のガウンに着替えさせてあったが、ビニールのマットレスの上に厚手とは言え毛布を二枚重ねただけの上掛けだった。
その患者は毛布の下で膝を胸に押し付ける様に身を縮こまらせて、両手で胸を押さえてゼーゼーと苦しそうな呼吸音を響かせ、再び辺り一帯に聞こえるほど咳き込んだ。
「インフルエンザの可能性は?」
亮介は久しぶりに使う聴診器を患者の胸に押し当てながら近くにいた看護師に訊いた。看護師は顔をしかめながら答えた。
「抗ウイルス薬は投与してあるんです。でもタミフルもイレンザも効果が見られなくて。病状が悪化する一方なんです」
「ぜんそくとかの持病は?」
看護師は首を横に振った。
「それに、こんなに大勢の患者さんが一斉にぜんそくの発作を起こすとは思えないですし」
次の患者は三十代の女性と、五歳ぐらいの彼女の娘だった。娘の方の毛布をまくった亮介は思わず大声を上げた。
「この子、血を吐いているじゃないか!」
驚愕の声を上げながら看護師たちも駆け寄って来た。内科専属の看護師が信じられないという表情でつぶやく。
「そんな……昨夜までは咳き込んでいただけなのに」
聴診器で十秒ほどその女の子の呼吸音に耳を澄ました亮介は、一番年長の看護師に向かって怒鳴る様に言った。
「児玉先生を呼んで来てくれ。すぐにだ! これは児玉先生が専門だ」
看護師たちから「熊さん先生」というあだ名をつけられている児玉が、巨体を揺らしながら駆けつけた。亮介は聴診器を手渡しながら告げた。
「肺炎じゃないかと思うんです。この子だけじゃなく、咳き込んでいる患者さん全員が」
児玉は一瞬、何を言ってるんだ? と言いたげな表情を浮かべたが、聴診を始めると目を剥いた。次々に咳き込んでいる患者に聴診器をあて、一通り診終わると看護師たちに叫んだ。
「抗生物質を用意してくれ。間違いない、これは肺炎だ」
看護師の二人がただちに階下へ走り出す。残った看護師の一人が亮介と児玉、どちらにともなくつぶやいた。
「でもどうして? いくらなんでも症状の悪化が早過ぎませんか?」
児玉は右手の指で無精ひげが伸びた顎をつかんだ格好で、数秒考え込んだ。そして言った。
「津波肺ってやつかもしれん」
「ツナミハイ?」
オウム返しの様に、亮介がつぶやいた。児玉は信じたくないといった口調で応じた。
「津波の水ってのは、ただの水じゃない。泥混じりの汚水だ。それに燃料タンクの重油とかが混じっていたかもしれん。その水の中で溺れかけたとしたら、呼吸器の奥まで雑菌や油が入った可能性がある。あっという間に肺炎まで行くんだ。それを津波肺と言うんですよ」
その報告を受けた院長はただちに全患者の検査を命じた。亮介たち医師が総動員で津波に呑まれた患者たちを診て回ると、六十人、実にそのケースの患者の八割が肺炎を起こすか、起こしかけている事が分かった。
亮介が今後不足しそうな薬剤をリストにまとめ、事務長の部屋へ行った。事務長が禿げ上がった頭頂から湯気を立てんばかりの剣幕で衛星電話の送話口に向けて怒鳴っていたのは、その時だった。
「だから、何度同じことを言わせるんですか! ここは二十キロ圏外だと言っておるでしょう。いや、それはその通りですが。ちょっと!」
どうやら相手が電話を切ってしまったようだった。事務室の入り口で立ち尽くしている亮介に気づいた事務長は、真っ赤な顔で告げた。
「どこの業者も薬剤を運んでくれんのですよ、先生。原発の三号機でしたか、あれの爆発以来、放射能汚染が怖いと言って。ここは心配ないと口が酸っぱくなるほど言ったのですが」
「薬剤の在庫は大丈夫なんですか?」
亮介の方は青い顔になって訊いた。
「緊急治療用の薬剤はまだ大丈夫だと思いますが。慢性疾患の患者さん用の薬は心もとない。ほら、そういう薬はこっちで処方箋出して町の薬局で買う仕組みでしょう。くそ! こんな時に医薬分業が裏目に出るとは」
それから事務長はまた衛星電話にかじりつくようにして、方々に連絡を取り始めた。亮介は一応薬剤の注文リストを事務長の机に置き、病棟へ戻った。
肺炎と診断された患者全員の手首のトリアージタグが黄色から赤に付け替えられた。この時点では、医師の誰がどの患者を何色にトリアージしたのか、誰にも分からなくなっていた。それは医師として本来あってはならない事だったが、亮介だけでなくベテランの医師たちすら、そんな綺麗事を言っていられる段階はとっくに過ぎていた。
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