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夜の八時を回った頃、医師、看護師たちが冷たく冷え切ったおにぎりを立ったまま頬張っている部屋へ事務長が走り込んできた。その顔には一目で分かるほどの安堵の表情が浮かんでいた。
「なんとか配達してくれる業者が見つかりました。明日の昼ごろには薬剤を積んだトラックがうちに来てくれるそうです」
医師たちも思わず「おお!」と歓声を上げた。内科医のリーダー格の山倉が、いかにもエリート然とした顔を子供の様に輝かせながら事務長をねぎらった。
「よくやってくれました、事務長。薬と器材さえあれば、後は私たちのがんばり次第だ。みんな、明日からも頼むぞ!」
その場にいた医師、看護師全員が口々に同意の明るい声を上げた。何日ぶりかで聞いた明るい口調だった。 亮介もスタッフ一人あたりにわずか一個ずつだけ配られたピンポン玉ほどの小さなおにぎりをお茶で流し込みながら、左手でガッツポーズを作って山倉の言葉に応えた。
だが内心では医師の体力の方を心配していた。とぼしい食料は患者に優先的に配給しているため、病院のスタッフの食事は質、量ともに貧相になっていく一方だった。医師や看護師も人間だ。こんなわずかな量の食事で、いつまで体力がもつか。
亮介は栄養源の欠片たりとも逃すまいと、右手の指についた米粒をむさぼるようにしゃぶった。
日付が十五日に変わってまもなく、院長室の衛星電話機が鳴った。話を聞き始めた院長はすぐに医師全員に集合するよう伝えた。ちょうど患者の検診が終わった亮介も院長室に走った。
「三つ葉厚生病院の研修医だそうだ」
集まった医師たちに、院長は送話口を手でふさいで告げた。そして回線の向こうの相手との会話を再開した。
「さっきそちらの市役所の災害対策本部からだと言ってましたね。確かにおたくの入院患者さんたちはうちでお預かりしています。二本松市まで来ているんですよね。でしたら患者さんのカルテを……え?」
院長はぎょっとした表情で、他の医師たちにも聞こえる様に、電話機のスピーカー機能をオンにした。いかにもまだ若そうな男の研修医の、半べそをかいているような声が聞こえて来た。
「うちの病院のスタッフは、ほとんどが隔離されてしまったんです。放射性物質の高濃度汚染とかで」
「落ち着いて下さい。連絡は取れないんですか?」
「電話連絡だけは出来ます」
「なら、あなたがカルテを受け取って持って来る事は可能なのでは?」
「その建物の中には、入る事は出来るが、一度入ったら外へは出られないと言うんですよ。相手は自衛隊なんです。何を言っても命令だからの一点張りで……」
「分かりました……しばらくは、そちらにいらっしゃるんですね? 何か状況が変わったら連絡して下さい。ええ、ええ、分かりました」
衛星電話を切った院長は、途方に暮れた表情で駆け付けた医師たちに視線を向けた。内科医の山倉が憤懣やるかたないという口調で言った。
「患者だけが送り出されたのは、そういう訳だったのか」
「ちょっと待って下さい!」
一緒に駆けつけて来ていた看護師長の宮田がドアから頭を院長室の中に突き出して叫んだ。
「だったら、あの患者さんたちにも放射性物質が付着しているんじゃ?」
その場にいた全員が「あっ!」と声を上げた。すぐに仮眠中だったレントゲン技師がたたき起こされ、三つ葉厚生病院からの避難患者を数人、レントゲン撮影した。レントゲン室のパソコンの画面に映し出された画像には、骨格の周りに無数の白い点が浮かび上がっていた。
「こりゃ確かに放射性物質だ」
四十代のレントゲン技師はため息をつくように言った。
「危険なレベルなんですか?」
そう訊いた院長に技師は頭を斜めに傾げながら自信なさそうに答えた。
「私もそっちの方の専門家じゃねえから、確かな事は言えねえが、この程度なら大騒ぎする必要はないんじゃないかな。ただ、体は洗ってやった方がいい。セシウムとかいう物だとしたら、酸性の石鹸とかで落ちるはずだ」
それから医師、看護師が総動員され、シャワー室で三つ葉厚生病院から避難してきた患者を順番に除染した。高齢の患者に冷水のシャワーを浴びせるわけにはいかないため、掃除用のバケツまで使って調理室で沸かしたお湯をシャワー室まで、何度も何度も繰り返し運び、男性患者は医師が、女性患者は看護師たちが、石鹸とスポンジを使って文字通り頭のてっぺんから足の指の先まで念入りに洗った。
「しかし、病院のスタッフは隔離されて患者はほったらかしって、どうなっているんでしょうね?」
児玉とペアになって男性患者の体を洗いながら亮介は思わず疑問を口に出した。患者の髪をぐしゃぐしゃと手の指でこすりながら、児玉はうんざりした口調で答えた。
「初めての事だらけで、国も自衛隊も、どこのお役所もどうしていいか分からないんだろうな。あれだけの地震、津波、そして原発事故のトリプルパンチだ。ここは二十キロ圏外で良かった」
患者全員の除染は明け方近くまでかかった。多分、医師、看護師全員がそうだったろうが、亮介の手は指先まで疲れ切って痺れて、メモを取る事さえ困難になった。昼ごろの薬剤受け取りに備えて順番に仮眠を取る事になり、亮介も二階の外科病棟のナースステーションの床で毛布を頭まで被って束の間の睡眠を取った。
だが一時間と経たないうちに児玉に体を揺すって起こされた。両目を指でこすりながら毛布から顔を出した亮介は、児玉の表情を見てがばっと飛び起きた。尋常でない事態が起きている事を、児玉の髭面が無言で語っていた。
一階へ一緒に降りていくと、待合室の一角から背筋がぞっとするようなうめき声が複数聞こえて来た。そこは黒にトリアージされた患者五人が集められて寝かされている場所だった。
骨盤骨折が一名、頭蓋骨陥没が一名、震災後の混乱の中で脳梗塞を起こした患者が三名、救命不能な患者として、手首のリストバンドに黒いタグをつけられ、移動式カーテン仕切りの向こうで苦痛のあまり、まるで地獄から響いて来るかのようなうめき声を発していた。