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ミルクの中で砂糖と卵が混ざり合う。
仕上げにバニラエッセンスを一振り。
濃厚な甘い香りが部屋を満たす。
「……うぅん?」
先程から心ここにあらずという風に鼻をひくつかせていた有夏が、ついにPSVitaを横に置いた。
「幾ヶ瀬、何つくってんの」
キッチンへ向かう。
足取りは、彼にしては珍しく軽いものだ。
渋面を作って小さなカップに液体を注いでいた幾ヶ瀬は、有夏の気配に顔をほころばせる。
「プリンだよ。2時間くらいで固まるから、後で一緒に食べよう」
「ん? 朝?」
「いや、固まったらすぐに食べたいじゃん」
「はぁ? 何時だと思ってんだよ」
「あははっ、夜更かしさんの有夏が言う?」
「夜更かしさんって、言い方よ……」
有夏が躊躇するほどである。
時計は2時を回っている。
勿論、夜のだ。
幾ヶ瀬、明日休みだっけと言いかけて、目の前の男の異様に静かな微笑に気付く。
「いいんだ、もう仕事辞めるから……ははっ」
「うっわ、また言ってるよ」
相変わらず忙しいらしい幾ヶ瀬は、今日──もう昨日になるのだが──も早番の入り時間に出かけ、遅番の上がり時間で帰ってきた。
昼休みは例によっていちいち家へ帰ってくるのだが、やはりどこか慌ただしく店に戻っていく。
「プリンはいいからさっさと寝ろよ。疲れてんだろ」
有夏にしては珍しい。
気をきかせてそう言うと、幾ヶ瀬は型に入れたプリンを持って顔を歪めた。
「朝になったら仕事に行かなきゃならないし。そしたらゆっくりプリン食べてる時間もないし。ああ、そうだった。辞めるんだった。そうだった…ははっ……」
「はぁ……」
こうなると幾ヶ瀬は少々面倒くさい奴で。
「尊敬する稲川淳二大先生を目指して怪談師になる夢を叶えるんだ。目指すは怪談グランプリ出場……ああ、YouTuberにならなくちゃ。そうだ、プリンをカラダにかけて舐め回すっていう動画はどうだろうか」
「どうだろうかって、お前がどうなんだろうな」
「あははっ、もうプリンを見るとヤらしいことしか思い浮かばないんだよっ!」
「あー……うん、だな。うん……よし、後で一緒に食うか。うん、それまで幾ヶ瀬、寝てていいから。だいじょぶ。ちゃんと起こしてやるって。うんうん、怪談グランプリにも出たらいいさ。存分に怪談を語ったらいいさ」
「……ははっ」
薄ら笑いを浮かべて押し黙る幾ヶ瀬。
頭の中で名作怪談をリプレイしているのだろうか。
時折、唇が震えている。
怖い。
「いくせー? 疲れてんだろが。ムリすんなって」
「やだやだっ! だってぇ!」
冷蔵庫の扉を開けて幾ヶ瀬が声を荒げた。
「仕事だけの人生なんて儚いよ! 1日の内の少しの時間でもいいから有夏と一緒に過ごしたい!」
「少しの時間って……けっこうお前……」
幾ヶ瀬があまりにグダグタうるさいものだから、この1週間ほどは有夏も早起きをして一緒に朝食をとっている。
昼休憩にはこの男、いそいそと帰ってくる。
勤務時間は確かに長いが、終われば即行帰って来て2人で夕食、眠るベッドも一緒なわけだから幾ヶ瀬のキレ方に、有夏としても呆れたわけだ。
「分かったよ。寝坊しても知らねぇ……っ」
くいっ。
有夏の目の前に幾ヶ瀬の人差し指。
指先がテラテラと光っている。
どこか不機嫌そうな表情の幾ヶ瀬が、ちらちらと横目で有夏を見やる。
本当に面倒臭い男だ。
「しょうがねぇな」
指先を口に含んで、わざと音たてて吸ってやると、途端に幾ヶ瀬の表情はだらしなく緩んだ。
「甘いでしょ、有夏。冷蔵庫で固めようね」
冷蔵庫にカップを並べる様は、いつもの幾ヶ瀬の態度に戻っている。
「有夏、甘いのもの好きだもんねぇ。俺、有夏のためにパティシエになろうかな」
なんて言い出す始末。
ブレッブレじゃねぇか。怪談師はどうしたんだよと有夏は肩を竦める。
「有夏のために何かにならんでいいわ。パティシエでも何でも、勝手に自分のためになれよ」
「やだ、深いっ!」
「深くねぇよ」
疲れているためか、このところの幾ヶ瀬はこんな感じで面倒なうえ、時として異様にテンションが高い。
夜中にこうやってお菓子をつくったり、ホラー映像を見たり。
レストランオーナー渾身の新メニュー・春恋シリーズによる忙しさからキテる、一連の行動である。
意外とキャパの狭い幾ヶ瀬は、こうやって煮詰まっては有夏曰く「うざいかんじ」になるのだ。
疲れているのは確かだ。放っときゃそのうち寝るだろうと、有夏は無言でゲーム機に手をのばす。
ダウンロードした懐かしのFF過去作に、彼は今夢中なのだ。
その手を幾ヶ瀬がつかんだ。
「ほら、うざい」
有夏が小さな声で呟いたのを、幾ヶ瀬は気に留めなかったようだ。
「ゲームだったら一緒にしようよ。ねぇ、有夏ぁ、一緒にしようよぅ」
「一緒にって対戦かよ。幾ヶ瀬Vita持ってねぇだろ」
「あはは、大丈夫」
おかしなテンションのまま、クローゼットの引き出しから出してきたのは小さな箱だった。
蓋を開けてお馴染みのカードを取り出す。
ダイヤにスペード、ハートにクラブ──普遍的なそのマーク。
「……トランプかよ」
幾ヶ瀬、ニコニコ笑って頷く。
「古くからあるものが、結局一番面白いんだって。何する? 七並べ? ババ抜き? ダウト?」
「………………」
どれも2人でしても面白くないゲームばかりだ。
「いや、あるいはダウトなら……? いや、お前もう寝ろ。なんでこんな夜中に2人してトランプしなきゃなんねぇんだよ」
「まぁいいじゃない。ババ抜きしようよ? 楽しいよ?」
「楽しいわけねぇだろ。隣りのクソビッチでも呼んで3人でやるか? 夜中だろうが何だろうが、呼びつけりゃホイホイやってくるだろ。バカだから」
バン!
幾ヶ瀬がテーブルを叩いた。
「絶対に嫌ですぅ。有夏と2人で遊ぶんですぅ」
「お前、酔ってんじゃ……」
「素面ですぅ。さっきまで仕事してたんだから、酒なんて飲む間もありませんー」
「うっざ……」