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アイドル×一般人 「本日、推しがご来店しました。」 ~i×f~
Side深澤
たぶん俺は、ちょっとだけ自惚れてる。
それでもいいと思えたのは、今日の鏡越しのお客さんが、
とびきり幸せそうな顔をしてたからだ。
シャンプー台に招く手に、少しだけ遊び心を混ぜる。
柔らかく流れるお湯。首に添えるタオルの温もり。
指先でゆっくり頭皮をほぐしながら、
“髪”だけじゃなく“気持ち”ごと預けてもらえる瞬間が、今の俺の生きがいだ。
――なんて、こんなセリフ、数ヶ月前の自分には絶対言えなかったと思う。
都内の美容専門学校を出て、内定をもらえたのは、
表参道の中心にある、ちょっと背伸びしたくなる有名サロン。
それでも最初は、雑用とシャンプーばっかりで、
正直、鏡を見るのも怖い日が続いた。
でも、どこかで覚悟を決めたんだ。
「技術も会話も、一流になってやる」
そう決めてからは、ただひたすらに手を動かした。
先輩たちの動きを目で盗み、モデルさんに頭を下げて練習を頼み、
閉店後は朝までウィッグを切り続けた夜もある。
その甲斐あってか、少しずつだけど――
「深澤さんに切ってほしい」って言ってくれる人が、増えてきた。
正直、めちゃくちゃ嬉しかった。
まだ“スタイリスト”の肩書きすらもらえてない身分だけど、
それでも「また来ます」って微笑んでくれる人たちのために、
俺は今日もハサミを握る。
鏡の前に座ったお客様の緊張が、
施術が進むごとにふっとほどけていく、その瞬間が何より好きだ。
まだ未熟で、うまく言葉にできないこともあるけど、
俺の“手”で伝えられるものが、確かにここにある気がしている。
―――――――――ドアに取りつけられた真鍮のベルが、控えめに鳴った。
「いらっしゃいませー」
反射的に声を張る。
鏡ごしに目をやった先、入口で立ち止まっているのは――
……ちょっと待って。
え、なにあの人。
空気が一瞬、止まった気がした。
深く落ち着いたベージュのカットソーに、黒のスラックス。
シンプルなのに、異様なほど“完成されてる”シルエット。
髪は少し長めで、無造作なのに美しくまとまってて、
なにより――顔。いや、顔立ち。いや、もう存在感そのものが。
「めっちゃカッコいい人……芸能人みたい」
心の中で、ぽつりと呟いた瞬間、
胸の奥がじんわり熱くなる。
思わず見惚れて、いつもの接客スマイルが遅れた。
「……えっと、ご予約のお客様ですか?」
ちょっと声が上ずった気がして、内心焦る。
だけど、彼――その“芸能人みたいな人”は、
ふっとやわらかく微笑んで、ポケットからスマホを取り出した。
「はい。岩本です。14時で予約してたと思います」
あ、名字までかっこいいじゃん。
なんかもう、声まで低くて綺麗ってどういうこと……。
心臓がドクンと脈打つのを感じながら、
俺はできるだけ平静を装って、
いつものように丁寧なお辞儀をした。
「岩本さんですね。ご来店ありがとうございます。本日担当させていただきます、深澤です。よろしくお願いします」
緊張はしてる。でも、それを悟らせたら負けだ。
何百回も練習した接客用の“笑顔”を浮かべて、
俺はカットスペースへと彼を案内する。
「お荷物こちらにどうぞ。ドリンク、冷たいものと温かいもの、どちらがよろしいですか?」
いつもどおり。いつもどおり。
手のひらにほんのり汗を感じながら、
俺は“美容師”としての自分に集中する。
けれど彼の立ち居振る舞いや、
一挙手一投足から滲む“只者じゃない感じ”に、
視線を戻すたび、胸がざわついた。
「こちらおかけください」
クロスをかけようと彼の後ろに立ったとき、
ほんの一瞬、すっと香った香水の匂い――
ウッディで落ち着きのある香りに、また心が揺れる。
“自分とまったく違う世界の人かもしれない”
そう思いながらも、
俺の指先は、もう彼の髪をすくいはじめていた。
「じゃあ今日は、カットとトリートメントでよろしかったですか?」
クロスをかけて、軽く鏡越しに確認する。
落ち着いた目元と、少し困ったような笑みでうなずいた彼は、
近寄りがたいほど整った容姿をしているのに、
不思議なくらい柔らかい空気をまとっていた。
「うん、髪ちょっと重たくなってきたから。量も減らせたらお願いしたいな」
「かしこまりました。毛先の質感は今のまま活かす感じが好みですか?」
「うん、あんまりシャープすぎないほうが好きかも」
……喋り方、穏やか。
声も見た目の印象より優しくて、びっくりするくらい、丁寧。
それだけで、ほんの少しだけ緊張の糸がほどける。
「了解です。じゃあ全体的にナチュラルな質感で、扱いやすさ重視して整えていきますね」
ハサミを持つ手が、徐々にいつものリズムを取り戻していく。
「お仕事、お休みの日ですか?」
何気ない質問。だけど、これでその人のことが、少しだけ見えてくる。
「うん、今日たまたまオフで。髪がちょっと限界だったから、調べて飛び込みで来たんだ」
「そうだったんですね。ご縁に感謝です」
苦笑気味に返すと、彼も小さく笑った。
「ここ、雰囲気いいね。落ち着く」
「ありがとうございます。ちょっと内装とか音楽とか、こだわってるんですよ。
あ、今流れてるのはオーナーの趣味ですけど」
ふと流れてきたのは、ジャズとポップスの間みたいな、洒落たアレンジのBGM。
いつもだったら何気なく聞き流してる曲に、なぜか今日は意識が向いた。
「……これ、もしかしてChet Faker?」
「えっ、分かるんですか?」
思わず声が跳ねた。
この系統の音楽にすぐ気づく人は、めったにいない。
「うん、昔よく聴いてた。声もいいし、アレンジもお洒落で。最近また音楽探してて、ちょうど似たの聴いてたから反応しちゃった」
「えー、なんか……嬉しいです。ちょっとニッチなところだと思ってたんで。
ちなみに最近は、どんなの聴いてます?」
ハサミを動かしながら、少しだけ身を乗り出す。
「んー、ジャンルはバラバラだけど、最近よく聴くのはTom Mischとか、Nulbarichとか」
「うわ、それ完全に僕と音楽の趣味合ってます」
思わず笑ってしまった。
この感じ、好きだ。肩肘張らないのに、ちゃんと通じ合ってる感覚。
「深澤さん、音楽やってたとか?」
「いや、まぁ、ははっ。音に包まれてる空間が好きで。こういう仕事してると、BGMって大事なんですよ。お客さんの緊張がふっと抜けたり、手のリズムが変わったりする」
「なんかわかるな。俺も仕事柄、音ってすごく大事だと思う。心に響くとか、空気を変える力があるっていうか」
“仕事柄”――その言葉に少し引っかかりつつも、
あえて深追いはしなかった。
その穏やかな声と、丁寧なまなざしが、
俺の中の美容師としての感覚を、どこか心地よく刺激していた。
「この前、お店が閉まったあとに、先輩たちと飲みに行ったんですよ」
指先を動かしながら、いつものように何気ない雑談を始めた。
緊張も、ずいぶんとほぐれてきた。
それはきっと、この人――岩本さんが、どこまでも柔らかい空気でそこにいてくれるから。
「で、二次会でカラオケ行こうって話になって、誰が歌うとか、音外すなよーとか盛り上がって……」
ふっと、笑ってしまう。あの夜の、酔いと熱気と、くだらない笑い声。
けど、その話の続きを自分でも思ってなかった方向に、口が向いた。
「……で、なんか、思っちゃったんですよね。“俺、やっぱり歌うの好きだな”って」
ハサミのリズムが、自然とゆるやかになる。
そう言って、鏡越しに目を上げる。
不意に告白みたいな響きになって、ちょっと照れくさくなった。
「仕事にはしてないし、別に上手いわけじゃないんですけど。声を出すと、なんか気持ちが整うっていうか。歌ってるときだけは、自分の輪郭がはっきりする感じ、するんですよね」
そこまで言ってから、少し笑った。
「……何言ってんだろ、俺。すみません、暑苦しくて」
岩本さんは、そんな俺の言葉に驚いたり、茶化したりすることもなく、
ただ静かに、頬にうっすら笑みを浮かべて言った。
「そうなんだ」
そのひと言は、あまりにも自然だった。
それが“本物”の人のリアクションなんだろうと思った。
優しさでも、好奇心でも、気まぐれでもない。
“言葉をちゃんと受け取る”って、こういうことなんだ。
「……昔ね、ちょっとだけ、本気で目指してたんですよ。歌手とか、アイドルとか」
そう言いながら、クロスの端を整える。
今ではこうして美容師をやってるけど、
高校の文化祭でマイクを握って、拍手を浴びたあの瞬間は、
まだ心の中のどこかで光っている。
「今はもう、ハサミでしかステージに立てないけど――でも、こういう風に誰かの前に立って、その人を笑顔にできるって意味では、ちょっと似てるのかなって思うんです」
笑いながら言ったけど、本音だった。
この仕事を好きでいる理由が、きっとそこにある。
「……深澤さんって、面白いね」
岩本さんが、ふとそんな風に呟いた。
目が合った。
「いや、いい意味で。まっすぐっていうか……気持ちが真ん中にある人だなって思った」
その言葉に、なぜか心がじんわり熱を帯びた。
そしてこのとき、俺はまだ知らなかった。
彼の職業も、舞台の上で照明を浴びているその姿も。
けれど、“音楽”というひとつの点で、
俺たちはすでに、どこかで繋がっていたんだと思う。
「……よし、これで完成です」
最後の一本を丁寧に落とし、クロスを外す。
襟足に残った細かな毛をブロワーで払ってから、
鏡の前に立った彼に、そっと一歩引いて声をかけた。
「どうぞ、仕上がりご確認ください」
岩本さんが鏡の中の自分をじっと見つめた。
その顔に浮かぶ表情の変化を、俺は後ろから静かに見守る。
どんな反応だろう。気に入ってもらえただろうか。
毎回この瞬間だけは、今でも心臓が高鳴る。
「……あ、すごい」
ぽつりと、低く優しい声がこぼれた。
その一言に、ふっと胸があたたかくなる。
「……なんか、気持ちまで軽くなった気がする」
彼はそう言いながら、少しだけ前髪を整えてから、
もう一度、じっくりと鏡に映る自分と向き合っていた。
カットラインは自然に、でも首筋がすっときれいに見えるように。
顔立ちの印象を邪魔しないよう、ほんの少しラウンドを加えた。
彼の雰囲気に馴染むよう、全体のバランスを何度も微調整した。
「バランス、すごくいいです。セットもしやすいと思います」
「うん、すごくいい。……ほんと、ありがとう」
その声にこめられた温度が、本物だった。
社交辞令じゃない。
“言葉”として届いてくる、まっすぐな「感謝」だった。
俺はそれだけで、報われる気がした。
「こちらこそ、ありがとうございます」
気づけば自然と、深く頭を下げていた。
会計のあと、店を出る前にもう一度だけ、
岩本さんがこちらを振り返った。
「……また来るよ」
その言葉が、ふいに落ちてきた。
あくまで自然に、照れもなく、ただ“当たり前”のように。
でも俺にとっては、胸を打つ一撃だった。
「はいっ、ぜひ!またぜひ、お待ちしてます!」
気づけば声が弾んでいた。
笑顔もたぶん、いつもよりだいぶ素直だったと思う。
彼の背中が扉の向こうに消えていったあと、
俺は静かになった店内で、はあっと息をついた。
どっと脱力するような、けれどあたたかい余韻だけが残ってる
。
「また来るよ」
その何気ないひとことに込められた信頼が、
嬉しくて、くすぐったくて、どうしようもなく誇らしかった。
美容師になってよかった――
そう、素直に思える日だった。
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