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第三話 新田が小説に惚れたのは、救われたからではなかった
新田が本を読むようになったのは、救われたかったからではない。
よくいるでしょう、と彼は思う。
本に救われた、物語に励まされた、ページをめくることで孤独を忘れられた。そういう読者はたしかにいるし、否定もしない。だが新田自身は少し違った。
彼はむしろ、本を読んで、自分の孤独に輪郭があると知った。
中学二年の冬だった。
雪の少ない町だったが、その年は珍しく積もった。部活をやめたばかりで、家では父親と母親の会話がほとんどなく、食卓には必要最低限の音しかなかった。喧嘩すらしない家は、静かなぶんだけ冷える。
学校帰り、たまたま寄った古本屋で、一冊の文庫本を手に取った。
理由は表紙でもタイトルでもない。ただ、棚から少しだけ飛び出していて、指に触れたからだ。
家に帰って読み始めたその小説には、たいした事件は起きなかった。
人が死ぬわけでも、恋が劇的に実るわけでもない。
ただ、どこにでもいそうな人間が、うまくいかない日々のなかで、言えないことを胸に抱えたまま生きていた。
新田は衝撃を受けた。
世の中には、自分の胸の奥にある、誰にも説明できない鈍い痛みを、そのまま言葉にしてしまう人間がいる。
しかもそれを、わかった顔をせず、慰め顔もせず、ただそこに置いてみせる人間がいる。
救われたというより、見つかった、に近かった。
それから彼は読むようになった。
文学も大衆小説も、純文学もエンタメも関係なく。
読んで、比べて、嫌いになって、好きになって、もう一度読み返した。
高校では国語教師に「お前は書くほうじゃなく読むほうだな」と言われた。少し腹が立ったが、その通りだった。自分には書けない。書けないものを見抜く目だけが育っていく感じがした。
大学を出て出版社に入った。
華やかな志望動機ではなかった。
ただ、自分が見つけたあの感覚が、誰かにも起こる瞬間に立ち会える仕事がしたかった。
それが編集という仕事だった。
けれど、現実の編集者はロマンだけでは食っていけない。
売上、部数、会議、社内調整、作家の機嫌、営業の論理、書店との関係、宣伝の予算。
文学の理想に浸っていられる時間など、驚くほど少なかった。
それでもときどき、ページの向こう側で、確かに脈打っている文章に出会うことがある。
あの男の原稿は、そのひとつだった。