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遥の肩が震えていた。泣いているのか、寒いのか、わからなかった。日下部は背を撫でる手を止めなかったが、それが本当に正しいのか、自信はなかった。
遥の瞳は焦点を結んでいなかった。
遠く、どこか――いや、「ここではないどこか」を、確かに見ていた。
「やめろ、って言ったら、また無視されんのかなって思った」
ぽつり、と。
「ちゃんと話そうとしたら、殴られた。……俺が悪いって言われた。いつも、俺が悪いんだって、思ってた」
声がどこか掠れている。痛みの中で、まるで別の人格のように。
心だけが時間を遡って、身体を置き去りにしているような。
「学校でも、家でも、“気持ち悪い”って言われて。……なのに、言い返せなくて、何もできなくて、泣けなくて、笑って誤魔化して、……そのうち、自分がバカなのか死んでるのかわかんなくなって」
遥の指が、日下部の服をぎゅっと握った。
「声、出していいのかもわかんなかった。……蓮司にされたことも、きっと俺が黙ってたから、って」
日下部は、何度もそれを想像してきたはずだった。
だが、目の前の遥が言葉にしたその「現実」は、想像以上に乾いていた。
感情すら枯れて、ただ、過去が、事実として並んでいるだけのように聞こえた。
「お前は、触んないし、怒んないし、傷つけてこないし……そういうのが、怖くなるんだよ」
そこで遥が、目を見開いた。
「……やば、今の……全部、口に出したの……俺……?」
我に返った遥の瞳に、急激な羞恥と自己嫌悪が走る。
顔を手で覆い、俯く。
「くそ……なにしてんだよ……俺……」
日下部が、そっと遥の手を取ろうとした。
だが遥は、思わずそれを払った。
「……ダメ、ちょっと、無理。……ごめん。触んないで」
拒否。それは、“誰か”に向けた言葉ではなく、“全員”への拒絶だった。
だが、日下部は何も言わなかった。
ただ、その場から一歩も動かなかった。
逃げないこと。踏み込まないこと。
そのどちらか一方でも間違えば、遥を壊すと分かっていた。
だから、じっと、そこにいるだけ。
時間が過ぎる。
ようやく、遥が、かすれた声で言った。
「……なんで、いんの、まだ」
「お前が、俺を拒否っても、そこにいる理由なんかいらない」
その一言が、遥の中の何かをわずかに軋ませる。
けれど、それが涙なのか怒りなのか、まだわからない。
遥は視線を落としたまま、言った。
「……ありがとな」
その声に、感情はなかった。けれど、確かに“今”にいた。
それだけで、日下部には、十分だった。