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クリニックを閉めた後、マウリッツの運転するボルボでスーパーに立ち寄り、二人で食べる為のものと飲み物を買っていたが、自宅のパントリーの一角に空き瓶が幅をきかせていることをウーヴェが思い出して些かげんなりした表情になる。
それを目聡く見つけたマウリッツが、ビールの空き瓶が転がっているのかと、あまり欠点らしい欠点が無いと思われているウーヴェの目に見えての悪癖を知っている者特有の声で笑うと、ウーヴェの頬が僅かに赤くなり、恥ずかしいところを見られた時の顔になって背けられる。
「スーパーに行くときにリオンに頼んでリサイクルに出すんだけどな……」
それ以上にどうやら飲んでいるようだと咳払いをするウーヴェにマウリッツがうんと頷きながら大きなカートにビールのボトルを無造作に放り込んでいき、驚くウーヴェに片目を閉じる。
「僕も一緒に飲むから今日は大丈夫だ」
「そうだな」
二人が一緒にいれば目の保養になると笑っていたのだ、これも笑って許して貰おうと、リオンが耳にすれば目を吊り上げかねないことを呟いたウーヴェの手がもう一本とビールを追加する。
「そう言えば、飲むときにいつも作ってくれたサーモンのオープンサンドがあったな」
「スモーブローだよね。ジェシカが良く作ってくれたからね」
学生時代、二人だけの時や今はもう言葉を交わすことも叶わなくなった人参色の髪の友人を交えて飲んでいたとき、軽く食べることの出来るものなどをそれぞれが作っていたのだが、マウリッツは常に他の二人を感動させ喜ばせるお摘まみを作ってくれていたのだ。
それがスモーブローだとウーヴェが知ったのはクリニックにリアが勤務し始めたある日のランチでウーヴェの分も持参してくれた時だったが、それがまた食べたいと無意識に呟きマウリッツがそれを丁寧に拾ったため、カートの中には焼きたてとはほど遠いパンとサーモン、ピクルスなどが入れられる。
「おじさんおばさんは元気なのか?」
「ああ、あの二人はいつも元気だよ。最近は皆とまた会うようになった事を言ったら喜んでいたかな」
マウリッツは祖父母の代から小児科専門の病院を経営している両親と一緒に働いているものの、医者になった年に家を出ているために職場であり両親の家でもある病院以外では会うことも少なくなっていた。
そんな息子に二人は一体いつになれば独身宣言を撤回するのかと何かの折に触れては伝えていたものの、一時期のマウリッツの不可解な落ち込みを通り越して命の危機が迫っているかも知れないと疑わせる様子から回復したように今は病院と自宅の往復以外にも外出するようになった事に安堵していると、不安を与えていた事に気付いた息子が肩を竦めるとその友人が目を軽く伏せて小さく頷く。
「……俺は、ルッツとまたこうして飲めることが、嬉しい」
世間との接触を断つようになった原因を知っている-どころか結果的にその一端を担ってしまっていた-ウーヴェが少しの不安を交えて呟くと、その真意を察したマウリッツの目も伏せられるが、唇の端をほんの少しだけ痙攣させながらも笑みを浮かべる。
「ウーヴェ……ありがとう。僕も、うん、嬉しいよ」
こうしてまた飲めるようになった事は本当に嬉しい、それは嘘ではないと言葉と笑顔で伝えるものの、ウーヴェが眼鏡の下で双眸を光らせたことに気付いたマウリッツが話題を切り替えるようにチョコが並ぶ棚へと顔を向ける。
友人のその態度から外出できるようにはなったが心に負った傷が癒えていないことに気付くと同時に、誰かいないのかとの疑問も芽生えてくる。
悲喜こもごもの出来事の中で心に傷を負うことがあった時、己には掛け替えのない太陽のような存在のリオンがいるのだと改めて気付き、そんな存在がこの友人にはいないのかと思ってしまうが、それを口に出すことは出来なかった。
マウリッツが友人達との接触をも断った理由が今はいなくなった人参色の髪の友人の死である事を知っている今、その話題を己が口に出してはいけないとの思いが強くあったのだ。
だからマウリッツからのアクションを待っていたウーヴェだが、こうしてそのアクションをされた後にはどのような態度で言葉を返せば良いのかが分からなくなって口を閉ざしてしまう。
仕事となれば驚くほど饒舌になるのに、己の感情を表すときには話す事を覚えたばかりの子ども以下のような己に自嘲してしまう。
「……ウーヴェ、……上手く言えないけど、僕は嫌いな人とはプライベートを一緒に過ごしたいと思わないよ」
今ここにいるのは紛れもなく己の意思だからと、決して他者に侵されることのない強い意志を秘めた目を細め、ステッキの握りをぎゅっと掴むウーヴェに笑いかけたマウリッツは、今日の飲み会を許してくれたリオンにチョコを買っていかないかと更に笑いかけ、ウーヴェに無意識の溜息を吐かせる。
「そう、だな」
「なんだ、ウーヴェも結局リオンには甘いんだ」
「……拗ねるとうるさいんだ」
「確かに拗ねられるとうるさいだろうね」
何しろ機嫌が良くても悪くても騒々しいと言われるリオンなのだ、拗ねると確かに存在が煩くなると笑うマウリッツにウーヴェも同意をするが、得体の知れない感覚が心の奥底で大きくなっていくのを振り払おうと頭を一つ振る。
「ウーヴェ?」
「何でもない。スモーブロー、楽しみだな」
「そうだね。ジェシカ直伝だから絶対に美味しいよ」
学生の頃バイトで入っていたカフェで覚えたそれだからと笑う友人に頷き、必要なものは全てカートに入っている、後は支払いを済ませて家に帰るだけだと重荷を下ろした顔で呟き、早く帰ろうと少し浮かれたような声で返されて再度頷くのだった。
最近の独身男は料理が出来なくても生きていけるが、自分の好きなものを好きなだけ食べたい故に自炊することを覚えたと笑いながらスーパーで買った材料で手際よくスモーブローを作ったマウリッツは、酒の用意をリビングのテーブルに並べているウーヴェに笑顔でそれを差し出すとウーヴェの顔にも笑みが浮かぶ。
「うん、これだ。久しぶりに食べられるんだな」
「僕も久しぶりに作ったよ」
そうだ、カール達にも二人で飲んでいる写真を送りつけてやろうと笑う友人に同意し、ビールをグラスに注いでテーブルセッティングをするとマウリッツがスマホで写真を撮り始め、ウーヴェの横に来たかと思うと二人が料理と一緒に写っている写真を撮って片目を閉じる。
「羨ましがられる?」
「だろうな」
屈託のない少し悪戯っ気を込めた笑顔のマウリッツにウーヴェも同じような顔になり、さあ、食べて飲もうと笑うとマウリッツも嬉しそうに頷きグラスを手に取る。
「乾杯」
「乾杯」
二人での家飲みは本当に久しぶりだとどちらからともなく笑うと、ほぼ一息でグラスを空ける。
テレビでニュースを流すと職業柄気になってしまうことが耳から入ってくるため、静かに本を読みたい時などに利用している、リオン曰くの睡眠薬代わりの教養番組にチャンネルを合わせるとマウリッツがビールを飲みながら変わってないと笑う。
「そうか?」
「そう。学生の頃もそうだったよね」
三人でいる時も本を読んでいるかテレビを見ても教養番組しか見ていなかったと笑われ、確かにそうかも知れないと苦笑すると、だから色々な事を知っているのだろうと頷かれる。
「知らないことも一杯ある」
「そう?」
「うん。ルッツが最近は何をしているかは知らない」
学生時代にはほぼ一緒に行動していたし誰かから近況についての話は入ってきたが、今はその話がカスパルや他の友人を通じても入ってこないと上目遣いに友人を見ると、申し訳なさそうな顔で肩を竦められる。
「……反省してます」
「反省だけなら誰でも出来るな、ルッツ」
マウリッツの殊勝な態度にウーヴェが珍しく上段から言葉を投げかけると、反省の証に今度身体を動かさないかと問われて眼鏡の下で目を瞬かせる。
「……足が……」
「その言葉は他の人ならともかくきみからは聞きたくないし聞かないよ、ウーヴェ」
足が悪くなった、確かにそれは不幸なことだが身体を動かさない理由にはなり得ないとビールグラスをずいと胸元に押しつけられて思わず仰け反ったウーヴェは、学生時代はカスパルなどと一緒にテニスをしていたが、ウーヴェがやりたいと思えば車椅子でテニスをする方法もある、スカッシュを楽しむことも出来る、楽しく身体を動かす方法はいくらでもあると笑われて目を瞠るが、車椅子でのテニスもスカッシュもやってみたいなと心から思った為に小さな笑みを浮かべて勝負をしないかと持ちかける。
己の下手な励ましに乗ってくれる友人が嬉しくてマウリッツも同じような笑顔で頷くと、先日知り合った車椅子テニスの有名なプレイヤーがいるから彼に紹介して貰う事を約束し、近いうちに皆で集まってテニスを楽しもうと笑う。
「皆で勝負をするのも久しぶりだなぁ。楽しみだな」
「そうだな」
今はまだ不安の方が大きいが、きっとこの友人達ならばウーヴェの足の障害を必要以上に気に掛けずに付き合ってくれるだろうとの確信を長い付き合いから抱き、楽しみだと笑うマウリッツのグラスにビールを注ぐ。
「……ウーヴェ、ありがとう」
「どうした?」
「うん……まだ時々、外に出ることが億劫になる事がある」
だから今日もそんな自分が嫌できみのクリニックに来たんだと今日の来訪の真意を伏し目がちに伝えるマウリッツにウーヴェも少しだけ時間を掛けてその隣に並んで座り直すと、うんと小さな声で返事をする。
テレビの中では科学者が生真面目な顔で訪れるかも知れない小惑星との衝突の確率を解説しているが、今隣で伏し目がちに己の思いを口にした友人の心が晴れやかになる確率を導き出す式を教えろと内心で毒突き、好きなものと友人を掛け合わせれば晴れるのではないかと気付くが、隣から聞き取りにくい声で小さな呟きが聞こえた瞬間、その思考が霧散する。
「……ここに、あいつがいれば、って……」
今でも何かの折りにそれを考えてしまう事があり、そう考えるだけで全ての時が止まってしまい何も出来なくなると続けて聞かされたウーヴェは、高い天井を仰いできつく目を閉じる。
大学の頃から顔を見て声を聞く事も出来なくなった今でも二人の間にいる、もう一人の友人の存在。
二人の関係を一時期ぎくしゃくさせた彼の存在だが、マウリッツの中では途轍もなく大きなものだったと改めて教えられたウーヴェは、無意識に拳を握り心の中でのみ会話が出来る友人に文句を言いたくなる。
「……ごめん」
暗い雰囲気になるから外出を避けていたがやはり来ない方が良かったとマウリッツが呟いた瞬間、ウーヴェが己でも驚くほどの強さでそれを否定する。
「謝るな、ルッツ。俺はお前とまたこうして飲めることが嬉しいと言ったんだ」
だから雰囲気が暗いとしても驚くほど陽気だったとしてもそんなことは関係ない。
初めて見たかもしれないウーヴェの怒りにも似た感情表現に飲まれそうになったマウリッツだったが、唇を噛んでプラチナブロンドを何度も左右に振った後、ビールを飲み干したグラスを大きな音を立てて置く。
「そんなきみだから、あいつも好きになったんだろうな」
いつまでも過去に囚われてウジウジしている自分とは違い、どんなに辛いことがあっても前を向いて生きている、そんなきみだからこそあいつも惹かれたんだと、己の額に拳を充てて昏い顔で笑うマウリッツにウーヴェは特に何も言わずにソファの上で友人に正対するように向き直る。
「暗くなるしこんなことは好きじゃないから思いたくなかった。でも……」
ウーヴェに聞かせているようで己自身に呟いている事がウーヴェには理解出来たため、まるで患者に臨むような表情を浮かべてしまうが、隣で苦しんでいるのが友人である事を思い出し、頭を一つ振って気分を切り替えるように細く息を吐く。
「……ルッツ」
「きみが、羨ましかった……!」
学生の頃からずっとずっと羨ましかったと哄笑の中で告げられたウーヴェは、友人の初めて聞くような声の中に悲痛な思いを感じ、羨ましいと思いながらもそれを嫉妬というより強くて暗い感情へと変化させずにいてくれた事にも気付くと、無意識に手を伸ばして俯く金髪を胸元に抱え込んでしまう。
「……っ!」
「独りで苦しかったな、ルッツ。気付いてやれなくて……辛い思いを、させた」
自分達の間に今も存在するもう一人の友人、オイゲンへの思いに気付いてやれず、己の鈍感さから今まで幾度も辛い思いをさせてきて悪かったと、過去の己を殴りつけたい苛立ちを抑えつつ友人の為だけに謝罪をしたウーヴェの胸に悲痛な思いがぶつけられる。
「どうして、僕じゃな……っ! どう、して……っ!」
今は亡き友人が愛したのはどうして己ではなく己が最も大事にしている友人なんだと、本人も人に見せるのは初めてかも知れない激情を羨ましいと告白したばかりのウーヴェの胸にぶつけたマウリッツは、感情の堤防が決壊した今、それを押し止める方法が分からない子どもに戻ったようで、どうしてと繰り返すことしか出来なかった。
「どうして、僕じゃなかった……っ!」
「……ああ。どうしてルッツじゃなかったんだろうな」
こんなにも想っていたお前ではなくその思いにすら気付けなかった己がどうして彼から愛されていたんだろう、恋愛の神とやらがいるのなら底なしに意地が悪いと己の友人を想って想像上の神に毒突いたウーヴェは、胸に何度もぶつけられる悲痛な思いを受け止めながら頭の片隅では己が巻き込まれた誘拐事件の後、病室で恩師に告げた言葉を思い出していた。
想っている人に想われている、それだけで己は幸せなのだとあの時病室のベッドの上でアイヒェンドルフに告げたその言葉の重みが降りかかり、目の前で激情をぶつけてくる友人の存在とによって押しつぶされそうになったウーヴェだったが、顔を上げて今は己の思うように動かすことが出来なくなった左足に以前のように意識を向ける。
最早そこには存在しない、壊されてしまったリザードから力を分け与えて貰っていた時の様に無意識に左足を動かそうとするがぴくりとも動かなかった為、情けないと自嘲しそうになるのをぐっと堪え、それならばと右手薬指に嵌まっているマリッジリングに意識を向ける。
どうか力を貸してくれと祈ったのは神でも恩師でもなく今夜の飲み会を勧めてくれたリオンで、頼むと口の中で呟いたウーヴェは己の胸元を掴んでただどうしてと繰り返すマウリッツの背中をしっかりと抱きしめ、震える髪に顔を寄せる。
「本当に、どうして、だろうな」
「……っ……! どう、……って……!」
感情に身体を震わせる友人が最も望んでいるであろう言葉も理解出来ない己の不甲斐なさに自嘲してしまいそうになるのを必死に堪え、激情をぶつけてくるマウリッツをただ抱きしめることしかウーヴェには出来ないのだった。
一時の激情が去ったのか、マウリッツが何度かしゃくり上げるような呼吸を繰り返したかと思うと、己を抱きしめているのがウーヴェだと思いだして瞬間的に羞恥を覚えるが、激情の嵐に身を委ねていたときに聞こえてきた声もウーヴェのものだと気付くと、震える腕をそっと痩躯に回して弱々しいハグをし、その動きにウーヴェの背中がぴくりと揺れるがまったく変わらない強さで背中を抱き返しながら頭に頬を宛がい口を開く。
「……少し落ち着いたか?」
「……情けない所、見せた。ごめん……」
いい年をした男が子どもみたいに泣き喚くなんて恥ずかしいしみっともない事だと自嘲に肩を揺らすマウリッツが見えなくても気にしないで頭を振って否定をしたウーヴェだったが、生真面目に返事をすれば友人がもっと羞恥を感じてしまうとの思いから少しだけ意地の悪い声で笑いかける。
「ルッツのこんな姿、今まで誰も見たことが無いだろうな」
「……あるわけないよっ」
ウーヴェの声に勢いよく顔を上げ、泣き腫らした目を羞恥に細めながら珍しく声を荒げるマウリッツにウーヴェがとっておきの笑顔で頷き、うん、ないよなともう一度頷くとマウリッツが袖で目元をぐいと拭う。
「顔、洗ってくるか?」
「……うん。……ウーヴェ」
「ん?」
ウーヴェの言葉に促されるように立ち上がり背中を向けて小さな声で名を呼ぶマウリッツにどうしたと苦笑しつつ問いかけると、肩越しに振り返った端正な顔に雲の切れ間から差し込む光を見たときのように眩しい笑みが浮かび上がる。
「恥ずかしい所見せたけど、きみだから良いか。……ダンケ、ウーヴェ」
「どういたしまして。……ルッツ、スモーブローもほとんど食べてない。ビールもまだまだ残ってる」
だからどうだろう、二人で酔いつぶれるまで飲もうと笑うウーヴェにくるりと振り返ったマウリッツが心の底から浮かべている事を思わせる笑みを顔中に広げるが、不安が残っていることを教えるように上目遣いに見つめ返す。
「リオンに怒られないかな?」
「大丈夫だ」
リオンの扱いならば任せておけと笑うウーヴェにマウリッツも肩を揺らし、それならば心強い、顔を洗ってくるから飲み直しだと笑って顔を洗うためにキッチンへと小走りに向かうが、ウーヴェの口からは無意識の安堵の溜息が零れ落ち、胸の奥ではいるかどうかも分からない恋愛の神とやらを親友の心を思ったウーヴェが持てる限りの言葉で罵るのだった。