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紫陽花
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【イグニスSide】
腕の中で、ようやく安らかな吐息を漏らし始めたアデレードの髪を、俺は指先で幾度もなぞった。
一週間、触れたくても触れられなかったその柔らかな質感。
涙に濡れた睫毛が微かに震え
情事の熱に浮かされた白い肌が、窓から差し込む月光を浴びて真珠のように淡く発光している。
「……おやすみ、俺の愛しいアデレード」
熟睡している彼女の額に深い口づけを落とすと
俺は名残惜しさを振り切って静かに寝台を抜け出した。
足音を殺し、寝室の重厚な扉を閉める。
その瞬間、先ほどまで彼女に注いでいた溶けるような甘い情愛はすべて心の奥底へ封じ込めた。
扉の向こう側、廊下に立った俺の表情からは一切の熱が引き
臣下たちが震え上がる「氷の王太子」の仮面が冷徹に張り付いた。
「───入れ」
地を這うような俺の声に応じ
廊下の深い影から、音もなく数人の男たちが現れ膝を突いた。
王家直属の諜報部隊。
公には存在しない、俺の「手足」となる影たちだ。
「バルトン。あの男のすべてを、日の出までにこの世から抹消する。塵一つ残すな」
放たれた声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭利な刃物のようだった。
あいつは、俺の宝物に触れた。
あのアデレードを泣かせ、屈辱に震えさせ
あろうことかこの俺に「まだ愛してくれるのか」とまで言わせるほど心を不安定にさせたのだ。
その罪は万死に値する。
「汚職、徴税逃れ、近隣諸国との不穏な通信記録……それから、奴が囲っている愛人たちとの不貞の証拠」
「すべてを今すぐ公爵家と教会、それに最高検察庁へ叩き込め。言い逃れの余地も再起の機会も与えるな」
「御意。しかし閣下、バルトン家には有力な後ろ盾も……」
「その後ろ盾ごと、根こそぎ刈り取ってやればいい。反対する者がいれば、共犯者として処理しろ」
俺が冷淡な視線を向けると
修羅場を潜り抜けてきた熟練の諜報員ですら一瞬息を呑み、圧に耐えかねたように深々と頭を下げた。
俺はそのまま執務室へ向かい、深夜の静寂の中で何通もの書簡を走らせた。
最高裁判事への更迭指示
バルトン所有の資産差し押さえ令状の代行署名、そして騎士団への拘束命令。
すべてが法に則りながらも、一寸の慈悲も挟まない完璧な「社会的な処刑」の筋書きだ。
ペン先が上質な紙を削る音が、復讐の旋律のように無機質な部屋に響く。
あいつが夜会で、人様の妻を辱めて高笑いをしていたその傲慢な顔を思い出すたび
腹の底から煮えくり返るような怒りで視界が赤く染まりそうになる。
だが、今必要なのは感情ではない。
確実に、社会的に、奴の息の根を止めるための冷徹な計算だ。
一族郎党、二度と社交界に顔を出せぬよう、徹底的に叩き潰す。
◆◇◆◇
明け方
東の空が白み始めた頃、報告が入った。
「すべて完了しました。バルトン男爵は不祥事の数々を突きつけられ、夜明け前に私邸にて拘束。爵位は剥奪、全財産没収の上、即時の国外追放刑が下されました」
「もはや、この国の土を踏むことは二度と叶いません」
「……そうか。ご苦労だった」
俺は椅子に深く背を預け、冷え切った紅茶に口をつけた。
男爵が今頃、絶望の中で国境へと引き立てられている姿が目に浮かぶ。