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夜鷹純は神が嫌いだ。
自身が天賦の才を持ち生まれたことは当然のように自覚している。
氷の上で生きる才能、氷の上で踊り続ける才能、他人を魅了する才能、自身の動きを俯瞰して修正できる才能。
これらを与えられた純は、神を恨んだ。
「僕は、氷の上でしか生きられない」
これは一種の呪いであると改めて認識したのは、銀盤の世界から身を引くと決めた直後だった。
自身に呪いをかけた神も、そして自分自身も、純は嫌っていた。
氷の上でしか生きられないつまらない人間だった。陸の上では何もできず、私生活も人間関係もままならない。
だから自分と同じ呪いを受けたあの子供を純はつまらないと感じたし、それに魅入られる弟子も、あの子供のコーチも理解できなかった。
特にあのコーチ。
最初は面白い人間だと思っていた。
たまたま目にした全日本選手権のアイスダンス。彼らは派手にリフトを失敗していた。大衆の思い出に残るのはその部分だろう。勝負の世界などそんなものだ。
けれど純は魅入ってしまった。どこか自分に似たスケーティング技術。大きな体が滑らかで繊細に動く姿。表情から伝わる、氷の上への執念。
振り付けは女性主体のものだったのに、純が顔を覚えたのは明浦路司だけだった。
共に滑った時、純は驚くと同時に落胆した。
自分と同じ「才能」を神から享受されている驚き。「呪い」を引き受けていないのにそれを課されたいと思うような気迫。その執念から生み出される技術と魅力。
あのつまらない子供を指導するよりも、司自身が氷の上で滑り続けてくれる方が、純はよっぽど嬉しかったのだ。
司なら、自分の代わりになって呪いを引き受けてくれたかもしれない。
司が自分の動きをトレースして、人々から愛されること。それを見ることが、自身を慰められたかもしれない。
もちろん、弟子の光も自分と同じ軌跡を辿り、人々から愛されている。
けれどそれだけでは足りなかった。
純が魅了されたと心から思う相手の渾身のスケートが見られないことが、ただ悔しかった。
そして明浦路司に才能以外の環境を用意してやらなかったことに対しても、神に恨みを抱き始めた。
もし司の生きる時代が少しでも違ったなら。
年上であったなら自分のコーチになっていたかもしれない。
同い年だったらライバルになり得たかもしれない。
うんと年下なら、場合によっては自分の弟子は光ではなくこの男だったかもしれない。
司は、「掴み取る才能」にはあまり恵まれなかったようだ。
それが歯痒かった。
覆せない運命を感じてもなお、時々夜鷹純は考える。
(もし彼がもっと早く、日の目を浴びていたら)と。
夜鷹純が目を覚ますのは朝ではない。
太陽の眩しい光は苦手だ。夜の生き物にとって、あの明かりは焼き尽くされてしまいそうになる。
今日も昼過ぎに目を覚ました。
そしてふと違和感を覚える。
自分の体と感じる空気が、何かが違う。
上体を起こして周囲を見渡し、驚く。自分の部屋の様子が変わっていた。
無造作に積まれた金メダル達。ダンボール箱に放り投げられた賞状。ゴミ箱に破り捨てられた新聞紙。その見出しに書かれる「夜鷹純、突然の引退宣言」の見出し。
純が引退したのはもう15年ほども前だ。今更新聞の見出しに載るほどの話題ではない。
では何故その新聞紙が部屋に存在しているのか。
その新聞紙の日付はいつだったか。
(僕は、過去に戻っている)
そう気がつくまでに時間はかからなかった。
夜鷹純は神を恨む。
何故今、この時間に自分を連れてきたのかと。
せめて引退する前なら良かった。それなら引退を撤回して、氷の上に自分を繋ぎ止める選択も出来ただろう。
けれど新聞の見出しにまでなるニュースを公表した後だ。その願いは叶わない。
引退直後のこの身で何をしろと言うのか。
神がお考えになることは理解ができない、と。
日が沈んでから、純はサングラスを掛けて街へと繰り出した。
部屋にいても意味がない。だからといって街へ出ることに意味があるかも分からないが、何かを求めて歩き続けた。
15年も前の世界は、世情に疎い純であっても流石に懐かしさを覚えると同時に、改めて自分が置かれた身を実感することになった。
歩き続けて、ふと足が止まる。
見上げた先はとあるスケートリンクだった。
(僕にはもう、用がないはずなのに)
滑りたくても滑れない。自分はもう選手でもコーチでもない。
氷の上の生き物のはずなのに、手が届かない立場の自分に何をしろと言うのか。
また神に舌打ちをしながら身を翻し、帰ろうとしたその時だった。
視界の隅に、金色が映し出された気がした。
その少年は、音もない陸の上で踊っていた。
その踊りが何であるか、純は即座に理解した。
あれは自分の、最後のフリープログラムだ。
音も映像もない、指導する者もいないにも関わらず、その少年は脳裏にある純のプログラムを、ジャンプを降りるタイミングまで計算して完璧に踊り遂げた。
陸の上で多少の動きの制限はあれど、それがいかに正確でよく出来たものであるかは、純が1番理解している。
まだ成長しきっていない体だったが、その動きは純がよく知っているあの男によく似ている。
雄大で大きく、それでいて滑らかで繊細に……。
その動きだけではない。顔つきも、何もかもがそっくりだ。
踊り終えて息をついたその少年の元に、純は足を向けた。
「ねえ」
「へ?」
集中していたのか、純の視線に気づいていなかったらしい少年は驚いたように体を震わせ、素っ頓狂な声を出した。
「君……」
「ご、ごめんなさい。もう帰ります。お邪魔してすみません」
「なんで謝るの。まだ何も言ってないでしょ」
慌ててふためいて荷物を持とうとした彼を止める。脳裏に浮かんだ、純が知っている姿よりも随分と臆病で縮こまっている。
「君、いつもここで踊っているの?」
「いつもじゃないです。今日が初めてです」
「氷の上では?」
「え?」
「氷の上で滑ったこと、ある?」
少年は純の言っていることに驚きながらも、ばつが悪そうに顔を俯かせる。
「ないです。本当は今日、滑ってみたかったんですけど。人も多いし、難しそうだったから」
「クラブには入ってないの?」
「……この歳ではもう遅いって言われました。親にも、そんなお金ないって」
なるほど、噂に聞いていた通りだ。
確か慎一郎から聞いた話では、14歳から独学でスケートを始めて、20歳まで師と呼べる者がいなかったらしい。
純に憧れて飛び込んだものの、手探りのまま生きてきたと。
この居心地悪そうな表情をみていると、あの自信のなさが理解できた気がした。
純はここまでの流れで既にこの少年が何者であるかを確信した。
「君、名前は?」
「え、えっと……明浦路司です」
ああ、やっぱり間違えていなかった。
欲しかった答えが得られて、純は思わず笑いそうになる。
「そう司。ねえ、君は氷の上で生きたいと思わない?」
「え?」
「そこまで夜鷹純のプログラムを完璧に覚えて踊れるなら、君が生きる世界は決まっているだろう?」
その言葉に司は心底驚いた表情をした。音もない素人の中学生に踊りを見抜かれたから。自分は氷の上では生きられないと宣告されたばかりだったから。
「なんで、夜鷹純のプログラムって分かったんですか?」
「なんでって、それは僕のプログラムだから」
サングラスを外した姿に、司は声を上げた。
「夜鷹、純……?」
神の意図をようやく理解した。
(彼がもっと早く、日の目を浴びていたら)
この思いを叶えてこいと言いたいのだろう。
ならば、叶えてやろう。神の望みも、自分の願いも。
この男の運命を捻じ曲げることになろうとも。
純の姿を見て固まり、声も出せない司に顔を寄せて囁く。
「ねえ。君は、僕と同じ道を辿る覚悟はある?」
この男と、「呪い」を共有して生きてやる。
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