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「おい! 誰が入ってくるぞ。すぐに隠れるんだ」
3人が同時に言った。
瞬時に全員が状況を整理しはじめた。
増殖母体であるキャプテン。
体がひと回り大きくなったジョー。
キャプテンとジョーはバスルームに向かって走りはじめた。
消去法によりあまのじゃくがリビングルームに残ったのだ。
「勇信さん……」
リビングルームへと入ってきたのは、菊田星花だった。
「星花、どうやってここに」
星花は最初に心配そうな表情であまのじゃく勇信を見つめたが、カエルフードのスウェットを見てはまばたきを繰り返した。
「勇信さん、その服……」
「ああ、この服……兄さんが大学時代のハロウィーンパーティーで着てた服だ。何だか懐かしくなって、つい着てしまったんだ」
「そうだったのね」
カエルスウェットに込められた事情を聞いて、菊田星花の表情が再び曇った。
「どうやってここに入ってきたんだ」
「勇信さんが心配できたに決まってるじゃない」
「いや、それにしてもどうやって入れたんだ?」
父である吾妻和志の唯一の友である、現警察長官の菊田盛一郎。その娘、菊田星花。
父が植物状態となる前は、菊田盛一郎とは互いの邸宅をよく往来した。そのため勇信と星花は子どもの頃から互いを知る仲だった。
星花はかつてモデルだった母親の外的遺伝子を受け継いだ。そしてその頭脳は現警察長官である父親から見事に引き継いでいる。
子どもの頃からコンプレックスだと言っていた太い眉は、数年前にレーザー照射によって姿を消した。
ベースボールキャップにジーンズというシンプルな服装に、化粧っけはない。しかしその姿がより彼女の美しさを引き出していた。
才色兼備。
まさに吾妻財閥の次男にふさわしい最高の相手と言えるだろう。
「玄関のパスワードはなんで変えたの? 勇信さんの携帯電話の末尾4桁だったからいいけど、せめて私にもちゃんと教えといてくれなきゃ」
菊田星花は涙目でそう言った。
「星花。なんで泣いてるんだ」
「勇太お兄ちゃんが本当にかわいそうだからよ。それに勇信さんは大丈夫なの? ずっと連絡が取れないから、心配で会いにきたんだよ。いきなり入っちゃったりしてごめんなさい」
菊田星花の目から涙が流れ落ちた。
「ありがとう。でも今日はもう遅いから、明日にでも話さないか」
「こんな大変なときだからこそ、勇信さんのそばにいてあげたいの。心って、いろいろと深く考えたら変な方向に向かったりするでしょ? そのことは私が一番よくわかってるんだから」
菊田星花の真剣な目に、あまのじゃくは当惑した。
「兄さんのことは少しずつだけど整理してるよ。だから心配しないでくれ。俺はまだひとりでいたいんだ。心がちゃんと落ち着いたら、必ずこっちから連絡するから」
「勇信さん。そんなことより――」
菊田星花はいきなり不審そうな顔でリビングルーム全体を見渡した。
「あれ何? どうしてカップラーメンの容器が3つもあるの」
「ああ、これはというとだな……えっと、その」
ひとりだから、逆に3つ作ったんだ――。
そんなバカげた言い訳が頭に浮かんだのと同時に、テーブル上の携帯電話が光った。
[時間を稼げ]
キャプテンのタブレットPCから届いたメッセージだった。
「星花。とにかく涙を拭いて。はいこれ」
あまのじゃくはティッシュを取り出し菊田星花に手渡した。しかし菊田星花の目には涙はなく、すでに乾ききっていた。ベースボールキャップの下に見えるのは、悲しみではなく、不審溢れる視線だった。
「誰かきてるの?」
鋭い声だった。
「こんな夜に誰もくるわけないだろ。これを見て」
あまのじゃくは携帯電話を星花に向けた。
画面にはカップ麺メーカーから送られてきた商品レポートが書かれていた。
外部に熱を放散させないカップの構造と、熱特性に応じた麺の太さの違い。メーカーが長い年月をかけて蓄積したラーメンのノウハウだった。
菊田星花は携帯を奪い取り、メール本文を読みあげた。
「弊社は特に麺と容器に多額の投資をしてきました。先述のようにカップ麺のひとつひとつに科学技術が組み込まれているのです。どうか今回の合併事業がよりよい結果となりますことを祈り、吾妻グループと我々雷神食品の明るい未来を思い描いている次第です。改めまして吾妻勇太副会長のご不幸を心からお悔やみ申し上げます」
メールの送信者はキャプテンだった。
「進めている買収計画があって、少しでも理解を深めようと思って食べてみただけさ。思ったよりおいしかったからびっくりしたよ」
「それにしても、なんで3つも――」
「容器がどうやって熱を放出するのか調べていたんだ」
「……」
「嘘だよ。兄さんが大学時代にこの服でラーメンを食べてたのを思い出してね。ふたつは自分で食べて、もうひとつは兄さんの分さ」
あまのじゃくの言葉に、菊田星花の表情からは疑いが消えた。
代わって悲しみが再び表面に現れた。
現警察庁長官・菊田盛一郎が来宅するたびに、勇太と勇信と星花はよく一緒に出かけたりした。
中学生になって同じ学校に通うことになると、勇信と星花は周囲が認められるカップルとなり、その関係は自然と深まっていった。
「付き合おう」との言葉を交わしたことは一度もなかった。
ただ寄り道のない直線道路を行くように、ふたりはまっすぐな関係を突き進んできた。
菊田星花が初めてふたりの関係を「恋人」と称したのは、勇信が留学のためにアメリカにいたときだった。
勇信に会うため、星花は一週間の旅にやってきた。
日本への帰国便で、彼女は初めて自分をガールフレンドと位置づけた。
[ガールフレンドを裏切らず、勉強だけに邁進してくださいね。まだアメリカの空の上なのに、もう勇信さんに会いたいです]
勇信は返信を送らなかった。
ただ肯定も否定もないままに、現在までその関係は続いている。
「勇信さん、無理はしないでね。あんな大変なことがあったんだから、ゆっくりと休んで」
菊田星花は空のラーメン容器を見つめながら言った。
「買収の件もそうだし、仕事が山積みなんだ。長く休んだから仕方ないことだ」
「無理しないで、有能な部下の方にお願いしてね」
菊田星花はそう言ってバスルームのほうに歩きはじめた。
「星花、ちょっと待って」
「どうしたの」
「今言ったこと、理解してくれるよな? だから今日は家に帰って、また今度ゆっくり食事でもしよう。お父さんと一緒に」
「……うん、わかった。でもひとつだけ約束してもらえるかな」
「まさか兄さんの後を追うなとか? そのラーメン容器を見ればわかるだろ。生きるためにカップラーメンを食べたんだ」
「そうじゃないわ。私のメッセージを無視しないでってこと」
「それは無視しろってこと? 逆に」
あまのじゃくは真剣な表情で言った。
「どうしたの? いきなりあまのじゃくみたいに」
[ふざけるな!]
すぐにキャプテンからメールが届いた。
「星花の表情があまりに暗いから冗談を言っただけだよ」
あまのじゃくはすぐに付け加えた。
「わかってるわ。今日はもう帰るね」
菊田星花が反転しリビングルームから去ろうとしている。
そのとき再び携帯にメッセージが届いた。
[今日伝えたほうがいい。引き延ばしたところで問題が増えるだけだからな]
あまのじゃくはメッセージを見て片方の眉を釣り上げた。
「星花、最後にひとついいかな」
「うん、どうしたの」
それは昨日、3人の勇信の間で決まったシナリオのひとつだった。
シナリオ:菊田星花と別れる。(緊急度「高」)
→勇信の増殖が世間に露呈しないためのやむを得ない対策。菊田星花と別れなければならない。別れは早ければ早いほどgood。
「いや、ただ呼んだだけだよ。逆に」
「そう。じゃまた連絡ちょうだいね」
菊田星花がリビングルームを離れ玄関のドアを閉めると、あまのじゃくが唇を噛んだ。
3人の勇信を守るためには、シナリオ通りに動くべきだった。それをわかっていても、あまのじゃくは自分自身をコントロールできなかった。
「今朝まで、俺はまともに仕事をしていた。なんでこんな性格になってしまったんだ?」
あまのじゃくがそうつぶやくと、浴室に隠れていたキャプテンがリビングルームに戻ってきた。
「仕方ないことだ。おまえは解放されたんだ」
「解放」
「吾妻勇信という殻を破りはじめたんだよ。今まで生きてきた方法で物事を捉えようとしたが、結局新しい属性には勝てなかったのさ」
「要するに、おまえは落ちぶれたんだ」
バスルームから出てきたジョーが言った。
「言葉に気をつけろよ、筋肉め」
「それで? 自分の思ったのと真逆の言動を繰り返す気分はどうだ?」
「正直なところ、なんだかかっこいい」
「救いようがないな……もう好きにしろ。今後は皿洗いをする必要もないし、掃除は俺がやるから、おまえは好き勝手に寝てろ」
「ふざけるな! 皿洗いと掃除は絶対の俺がやる……うん?」
この瞬間、あまのじゃくが掃除と皿洗い担当になった。