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朝九時前。
総務部のフロアに差し込む蛍光灯の白さは、まだ人の熱気を吸っていない分だけ冷たい。
エレベーターが静かな音を立てて開き、
美浜千里は一歩、足を踏み入れた。
栗色のショートボブが肩に触れるか触れないかの位置で揺れる。
落ち着いた色味のブラウスとスラックス、その上に軽いカーディガン。
特別目立つわけでもないが、どこか“整いすぎている”印象を与える。
「おはようございます」
声は、澄んでいて、テンポは速すぎず遅すぎず。
だがその音がフロアに届くより前に、
いくつかのデスクで交わされていた雑談は、少しだけ、
ほんの少しだけ、勢いを落としていった。
「——あ、新しく入った人だよね?」
小声で誰かが言う。
その視線が千里の背中をなぞるのを、千里は特に気にとめない。
(まあ、最初はこんなものか)
歩きながら淡々とそう思う。
中途採用の初日は、いつだって
“説明されていない空気”の量がいちばん多い。
席に着き、PCの電源を入れる。
立ち上がるまでの数秒、
千里はデスクの上に置かれたいくつかの付箋の位置を目で追った。
前任者が残したメモだろう。
「緊急」「至急」「確認」——どれもフォントのように整った字で書かれている。
(忙しい部署、なんだろうな)
推測し、淡々と深呼吸する。
そこへ、背後から影がひとつ近づいた。
「美浜さん? 総務の山川です。今日からよろしくね」
明るすぎる声に、千里はすぐ振り返る。
丸い目が、相手をきちんと捉えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
軽く会釈して答える。
そのやり取りだけを切り取れば、
千里はごく普通の、新しい社員のひとりにすぎない。
だが、山川が離れていったあと、
周囲の何人かが彼女を横目で見ながらひそひそ話す声が
耳にかすかに触れていった。
「……なんかクールそう」
「え、でも意外と礼儀正しくない?」
「近寄りがたくない? ああいうタイプ」
千里は聞こえないふりをして、
ゆっくりと椅子に腰を沈める。
PCの画面が光り、
ログイン画面のカーソルが点滅する。
指をキーボードにかけながら、千里は目を瞬かせた。
その瞳の奥には、誰に見せるでもない落ち着きと、
ここではまだ語られない、遠く離れた家族の影がわずかに潜んでいた。
(今日から、また“外側”に立ち続ける日々か)
そう思いながら、千里は最初のキーを静かに押した。