テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
最初の二日は、まだどこかで動ける気がしていた。
謝る機会はある。
話しかける隙も、その気になればいくらでも作れる。
ほんの少し勇気を出して、「あの日は悪かった」と言えば済むのだと、二人とも頭では分かっていた。
分かっているのに、できなかった。
ドラコは朝、鏡の前でネクタイを締めながら何度も考えた。
今日こそ言うべきだ、と。
廊下で会ったら止める。食堂で見かけたら席へ行く。昼休みにでも、誰もいないところへ呼び出して、余計な嫌味は抜きで、ちゃんと話す。
そこまで決めて、いざハリーの姿を見つけると、胸の奥が強張った。
中庭で見たあの場面が、まだ目の裏に焼きついている。
ジニーへ向けた笑顔。近い距離。こちらの存在に気づいたうえで、なお逸らされなかった視線。
あれがわざとだったのだと分かっている。
分かっているからこそ痛い。
本気ではないと理解できるぶんだけ、怒りより先に、自分がちゃんと狙いどおり傷ついたことが腹立たしかった。
謝りに行く。
そのつもりで一歩踏み出す。
しかし、もし今のハリーが冷たい顔で「何?」とだけ言ったら。あるいは、無関心を装った目で「別に、もういいよ」と返したら。そう考えただけで、足が止まった。
ドラコは自分の臆病さにうんざりしていた。
結局、自分はそういう人間なのだ。
欲しいものがあるくせに、それを失う場面を想像しただけで動けなくなる。先に手を伸ばして拒まれるくらいなら、黙ったまま苦しんでいたほうがましだと、どこかで本気で思ってしまう。
それが醜いと、もう十分すぎるほど知っていた。
一方のハリーも、事情は変わらなかった。
最初の夜を越えたあたりで、怒りは少し引いた。
その代わりに残ったのは、鈍い疲労と、情けなさだった。
あれはやりすぎだった、と分かっている。
ジニーを巻き込んで、ドラコを見える場所で傷つける。あまりにも幼稚で、あまりにも卑怯だった。
ジニーにはすぐ謝った。
彼女は「別にいいけど」と言ったあとで、「でも、あんた本気で最低だったよ」と遠慮なく付け加えた。ハリーは反論できなかった。
自分でもそう思っていたからだ。
ドラコに言われたことが痛かった。
本当に、かなり。
どうでもいい、と言われたわけではない。分かっている。あれは照れ隠しで、怒りと不安と意地が混ざった結果だ。それでも、あの時のハリーには言葉どおりに刺さった。
だからやり返した。
相手の弱いところへ、きちんと届く形で。
やってしまった以上、今さら「本気じゃなかった」と言っても言い訳にしかならない。
それに、謝ろうとしても、その前にドラコのあの顔が浮かぶ。回廊の端で立ち止まり、こちらを見て、何も言わずに去っていった時の、あの蒼白な横顔。
あんな顔をさせたのは自分だ。
そう思うと、かえって声をかける資格がない気がした。
謝ることで少しでも楽になろうとしているだけではないか、と自分を疑ってしまう。
それなら黙っているほうが誠実なのか。いや、違うだろう。違うと分かっているのに、次の一歩だけが出てこない。
三日目の昼には、周囲もさすがに異変を察し始めていた。
「お前ら、喧嘩でもしたのか?」
ロンが率直に聞いたのは、食堂でのことだった。
ハリーは皿の上のパンを見つめたまま、「別に」と答えた。
その返事の仕方だけで、別にではないと分かる。
ロンは露骨に顔をしかめた。
「いや、別にじゃないだろ」
「別に」
「何だよその言い方」
「普通だよ」
普通ではなかった。
声が妙に平坦で、余計な感情を押しつぶしている時の調子だった。
向かいの席でハーマイオニーが本を閉じた。
「ドラコとは、もう三日まともに話していないそうね」
ハリーが顔を上げる。
「何で知ってるの」
「見ていれば分かるわ」
ハーマイオニーは冷静だった。
「あなたたち、互いが近くにいる時だけ呼吸の仕方が不自然になるもの」
ロンが「そこまで分かるのか」と呟く。
ハーマイオニーはそれを無視して続けた。
「何があったのかは知らないし、無理に聞くつもりもない。でも、今のあなたは不機嫌というより消耗している」
一拍置く。
「話しなさい」
ハリーはそこで、かえって口を閉ざした。
正しい。
あまりにも正しい。
だからこそ反発したくなる。
今の自分の醜さを、一番よく分かっているのは自分だ。
分かっているのに、そこへさらに正論を重ねられると、ますます動けなくなる。
「放っておいてよ」
思ったより強い声が出た。
ロンが驚いて目を見開く。ハーマイオニーは表情を変えなかったが、目だけが少しだけ曇った。
ハリーはその顔を見て、すぐに後悔した。
でも、今さら引っ込めることもできない。引っ込めたら、そのまま全部話してしまいそうだった。
「……ごめん」
小さく言う。
「でも今は、ほんとに無理」
ハーマイオニーはしばらく黙っていた。
やがて静かに本を開き直す。
「分かった」
それから、ページへ視線を落としたまま付け加える。
「でも、無理を理由に時間を空けすぎると、余計に言えなくなるわよ」
その通りだった。
その通りなのに、ハリーは何も返せなかった。
同じ頃、ドラコもまた別の場所で同じようなことを言われていた。
「お前、この数日ずっと死にそうな顔してるぞ」
クラップだった。
廊下の壁にもたれ、露骨に面白くなさそうな顔でこちらを見ている。
ドラコは本気で無視したかったが、無視すればするほど図星だと認めるような気がして、結局足を止めた。
「失礼だな」
「事実だろ」
クラップは肩をすくめる。
「顔色は悪いし、短気だし、今朝なんかクィディッチの話題を出しただけで睨んできた」
「お前の話し方が無神経だった」
「そういうことにしておいてもいいが、原因は別にある」
クラップは淡々と告げる。
「ポッターと何があった」
ドラコの表情が凍る。
「何もない」
「その言い方をする時は、だいたい何かある」
ドラコは舌打ちした。
どうしてこうも、他人は余計なところばかり勘が鋭いのか。
「仮に何かあったとしても、お前に話す義理はない」
「ないだろうな」
クラップはあっさり言う。
「ただ、見ていて鬱陶しい」
その一言に、ドラコは眉をひそめた。
「鬱陶しい?」
「そうだ」
クラップは壁から背を離し、真顔で言う。
「話しかければ棘だらけ、ポッターの名を出せば不機嫌、なのに本人を見かけると目だけは追ってる。面倒くさい上に分かりやすすぎる」
ドラコはそこで、本気で頭が痛くなった。
分かりやすすぎる。
その言葉は今、一番聞きたくないものだった。
「余計なお世話だ」
「そうだな」
クラップは皮肉もなく答える。
「だから最初は黙っていた。だが一週間近くその調子でいられると、さすがに視界の邪魔だ」
まだ一週間も経っていない。
その時のドラコは、そう思った。
だが日数を数えると、すでに四日目だった。
たった四日。
なのに、妙に長かった。
五日目になると、二人とも意地と疲労の区別がつかなくなり始めていた。
もうここまで来たら、向こうから来るべきではないか。
そんな考えが、時々ふと顔を出す。
ハリーはそれを思った瞬間、自分で自分にうんざりした。
もとはといえばジニーを使って見せつけたのは自分だ。ドラコのほうが先にひどいことを言ったにせよ、そのあとでやり返したやり方は明らかに悪質だった。謝るべき側に自分も入っている。むしろ、もう「どちらが先か」で整理できる話ですらない。
ドラコのほうも同じだった。
あの時、自分が黙っていればよかった。
ほんの一言、「待っていた」と言えれば済んだ。
あるいは、せめて嫌味に変換せずに「遅かったな」とだけ言えれば、ここまで拗れなかった。
全部、自分の口から始まっている。
それなのに五日も経つと、向こうも向こうでやりすぎただろう、という思いが湧いてくる。湧いてくるたび、それにすがりたくなる。そうしないと、自分の失敗の大きさばかりがはっきりしてしまうからだ。
人間は、追い詰められると本当に見苦しい。
六日目には、互いの存在そのものがぎこちなくなった。
廊下の先で相手を見つける。
一瞬だけ視線が合う。
その瞬間、どちらも何か言いかける気配を見せる。
しかし次には、誰か別の生徒が間に入るか、あるいは当人同士がわずかに顔を逸らして、そのまま通り過ぎる。
その数秒のためらいだけが、積もっていく。
誰も手を伸ばさない。
伸ばせない。
ほんの一言で崩せるはずの壁が、言葉を失ったまま厚くなっていく。
そして七日目の朝には、もう空気そのものが冷え切っていた。
怒りは最初ほど熱くない。
罪悪感も、ずっと同じ強さでは続かない。
代わりに残ったのは、冷えた意地と、放置された傷と、ここまで来た以上もう軽々しく折れたくないという妙なプライドだった。
固まってしまったのだ。
怒りも。
謝罪も。
本当は欲しかった言葉も。
食堂でロンがとうとう呆れたように言った。
「お前ら、まだそのままなのか」
返事をしたのはハリーではなくハーマイオニーだった。
「まだ、じゃないわ」
彼女はひどく静かな声で言う。
「もう、よ」
ハリーは何も食べる気になれず、皿の上のナイフを意味もなく動かした。
少し離れた席にはドラコがいる。こちらを見ない。見ないくせに、気配だけは分かる。
ロンは二人を見比べ、小さく舌打ちした。
「ほんと面倒くさいな」
それは正しい感想だった。
面倒くさい。
幼稚だ。
分かっている。
二人とも、自分がどれほど未熟で、どれほど愚かで、どれほど今の状況を自分で悪化させているかをちゃんと理解している。
理解しているのに、動けない。
傷つくのが怖いからだ。
もう一度拒まれることが。
もう一度、あんな顔を見せられることが。
あるいは、自分のほうがもっと酷い顔をしてしまうことが。
だから黙る。
黙ったまま、相手が先に来る可能性だけをどこかで待つ。
そして待ちながら、自分はそんなことを望んでいないふりをする。
七日目の夜、ハリーは一人で窓の前に立っていた。
ドラコもたぶん、どこかで同じように眠れずにいるのだろう。
そう考えるだけで胸が痛む。
でも、その痛みももう初日の熱ではない。冷えて、重くなり、胸の奥に石として沈んでいる。
外は曇っていた。
月は見えない。
風もない。
ホグワーツ全体が、息を止めているようだった。
一週間。
たったそれだけで、こんなにも遠くなる。
たったそれだけで、声をかける一言が、崖を飛び越えるほど難しくなる。
ハリーは窓ガラスに触れた。冷たい。
その冷たさが、今の自分にちょうどよかった。
ドラコもまた、その夜、ランプも点けずに椅子へ座っていた。
謝ればよかった。
その事実はもう揺るがない。
ハリーも同じように幼稚だった。傷つけ返してきた。
それも本当だ。
でも、だからといって最初のひと刺しが消えるわけではない。
そうやって互いの正しさと間違いを抱えたまま、一週間が過ぎた。
誰も勝っていない。
誰も救われていない。
ただ、意地と怒りと罪悪感とプライドだけが、冷えて固まり、手で触れてももう形を変えないところまで来ていた。
ここから先、どちらが先に砕くのか。
あるいは、本当に砕けずに終わるのか。
まだ、誰にも分からなかった。