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yume
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蝶は、死体の上を飛んでいた。 正確には、死体の上だけではない。
道路脇の街灯。
古びたフェンス。
濡れたアスファルト。
近くに停められたパトカーのボンネット。
そして――
規則正しく並ぶ、黄色い規制線の周囲。
まるで、
その場所だけが別の季節になったかのように。
蝶がいた。
十匹。
二十匹。
いや、それ以上。
「……多すぎるだろ」
橘恒一(たちばな こういち)が、
規制線の向こうを見ながら呟いた。
十月の朝。
気温はまだ低く、吐いた息がわずかに白くなる。
蝶が活発に飛び回るような陽気ではない。
それなのに、
目の前には異様な数の蝶が集まっている。
「橘さん」
後ろから声がした。
「ん?」
「触らないでください」
白い手袋をはめた白瀬澪(しらせ みお)が、静かに言った。
「触ってないって」
「今、近づこうとしましたよね」
「……気になっただけだよ」
「気になるのは分かります。でも、現場ですから」
「はいはい」
橘は肩をすくめた。
その隣を、一人の男が通り過ぎる。
黒いスーツ。
暗い色のネクタイ。
少し長めの黒髪。
表情はほとんど変わらない。
神代朔夜(かみしろ さくや)。
捜査一課の刑事だった。
朔夜は二人の会話には入らず、
規制線の内側へ入っていく。
現場に入った瞬間。
彼の目つきが変わった。
先ほどまでの無表情とは違う。
鋭く、静かに。
そこにあるものを一つずつ拾い上げるような視線。
道路。 街灯。
フェンス。 靴跡。
落ち葉。 蝶。
そして――
倒れている男性。
朔夜は遺体から少し離れた場所で足を止めた。
「身元は?」
「まだ確認中」
橘が答える。
「発見者は?」
「近所に住んでる男性。朝の散歩中に見つけたらしい。第一発見時には、もうこの状態だったって」
「死亡推定時刻」
「鑑識待ち」
「周囲の監視カメラは?」
「今、小宮(こみや)が確認してる」
「分かった」
短い会話だった。
朔夜はそれ以上何も言わない。
ただ、現場を見ていた。
何かを探している。
証拠。
痕跡。
犯人が残したもの。
あるいは――
犯人が残さなかったもの。
「神代さん」
澪が呼んだ。
「何だ」
「少し、気になることがあります」
「聞こう」
澪は遺体の周囲を確認しながら言った。
「現時点では断定できません。ただ、毒物による中毒死の可能性があります」
「毒物?」
「はい」
朔夜の視線が、遺体へ戻る。
「何か薬品が見つかったのか?」
「まだです。だから変なんです」
澪は少しだけ眉を寄せた。
「外傷が目立たない。それなのに、身体の状態から見ると、何らかの中毒症状が疑われる」
「何の毒かは?」
「分かりません」
「植物毒?」
「可能性はあります」
「動物毒は?」
「それも否定できません」
「人工化学物質は?」
「もちろん候補には入ります」
そこで澪は一度、蝶へ目を向けた。
「ただ……」
「ただ?」
「この蝶です」
朔夜も蝶を見る。
青い蝶。
黄色い蝶。
白い蝶。
茶色い蝶。
種類まで違う。
それらが一つの場所に集まっている。
「何か分かるのか」
「いえ」
澪は首を横に振った。
「分からないから、気になるんです」
朔夜は黙った。
蝶の一匹が、規制線の内側へ入ってくる。
ひらひらと飛び。
遺体の近くへ降りた。
そして、すぐに飛び立つ。
朔夜はその動きを目で追った。
「……神代?」
橘の声。
「何でもない」
朔夜は蝶から視線を外した。
「周囲をもう一度見てくる」
「おいおい、また一人で動く気か?」
「五分だ」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ」
橘の声を背中で聞きながら、朔夜は歩き出した。
道路脇。
フェンス。
植え込み。
電柱。
そして、現場から少し離れた場所。
足を止める。
「……」
何もない。
少なくとも、普通に見れば。
だが。
朔夜はしゃがみ込んだ。
地面に、薄い青色の染みがある。
水滴のような小さな跡。
そのすぐ横には、一枚の羽。
蝶の羽だった。
朔夜は触れない。
手袋をしたまま、じっと見る。
「神代さん!」
遠くから声が飛んできた。
小宮透(こみや とおる)だった。
息を切らしながら走ってくる。
「何だ」
「監視カメラ、確認できました!」
「何か映っていたか」
「それが……」
小宮は眼鏡を押し上げた。
「変なんです」
「何が」
「この時間帯、現場付近を通った人がほとんどいません」
「ほとんど?」
「はい。午前五時から午前七時まで確認しました。でも、被害者以外に怪しい人物は……」
そこで小宮は言葉を止めた。
「……いや」
「何だ」
「一人だけ、映っています」
朔夜が立ち上がる。
「誰だ」
「それが、人物として認識できないんです」
「どういう意味だ」
「映像を確認してください」
小宮はタブレットを差し出した。
画面には、現場近くの道路が映っている。
午前五時四十二分。
誰もいない。
五時四十三分。
街灯が一瞬だけ点滅する。
そして――
何かが画面の端を横切った。
「……今のは?」
朔夜が聞く。
「分かりません」
小宮は首を横に振った。
「人影にも見えます。でも、歩き方がおかしい」
「拡大できるか」
「はい」
映像が拡大される。
画質は悪い。
輪郭もぼやけている。
黒い何かが、道路の向こうを横切っている。
人間のようにも見える。
だが。
足元が映っていない。
「……蝶?」
小宮が呟いた。
「何?」
「いや……」
もう一度映像が再生される。
黒い影。
街灯の明かり。
一瞬だけ見える青い何か。
そして――
画面いっぱいに、小さな蝶が飛んだ。
映像が途切れる。
「……」
三人とも黙った。
「映像の欠損です」
澪が後ろから言った。
「蝶が原因でカメラの前が隠れただけでしょう」
「そうだといいんですけど……」
小宮は困ったように笑った。
朔夜はタブレットを返した。
「小宮」
「はい」
「過去に似た事件がないか調べろ」
「似た事件?」
「中毒死。現場に蝶が大量発生していた事件」
「……蝶、ですか?」
「ああ」
「そんな条件で?」
「何でもいい」
朔夜は淡々と言った。
「一致するものが一件でもあれば報告してくれ」
「分かりました」
小宮が走っていく。
その背中を見送った橘が、ため息をついた。
「神代」
「何だ」
「まだ何も分かってないぞ」
「分かってる」
「だったら、どうしてそこまで気にする?」
朔夜は答えなかった。
代わりに、現場を振り返る。
蝶。
遺体。
青い染み。
そして、監視カメラに映った黒い影。
「……偶然にしては、多すぎる」
それだけだった。
橘は少し黙ったあと、苦笑する。
「出たよ」
「何が」
「神代の『偶然嫌い』」
朔夜は橘を見る。
「嫌いなんじゃない」
「じゃあ?」
「偶然で済ませると、見落とす」
その言葉に、橘の表情から笑みが消えた。
朔夜は再び現場を見る。
「事件は、最初に見えたものが全部じゃない」
風が吹いた。
大量の蝶が、一斉に舞い上がる。
羽音はほとんどしない。
ただ。
視界を埋め尽くすほどの蝶が、空へ舞った。
その瞬間だった。
「……え?」
澪が小さく声を漏らした。
朔夜が振り返る。
「どうした」
「いえ……」
澪は蝶の群れを見つめていた。
「今、一匹だけ……」
「何?」
「他の蝶と逆方向に飛びました」
朔夜は空を見る。
蝶の群れは、全て同じ方向へ飛んでいる。
ただ一匹。
黒い蝶だけが。
こちらへ向かってきていた。
ゆっくり。
まっすぐ。
朔夜の目の前まで。
そして―― 彼の左手。
古い腕時計の上に、止まった。
「……」
朔夜は動かなかった。
黒い蝶も動かない。
時計の針だけが進んでいく。
午前七時十三分。
カチ。
カチ。
カチ。
「神代さん?」
澪の声。
朔夜は蝶を見つめたまま、低く呟いた。
「……こいつ」
「え?」
「妙に、人を選ぶな」
次の瞬間。
黒い蝶は飛び立った。
そして、道路の先にある古い廃屋へ向かっていった。
朔夜はその姿を目で追った。
廃屋の窓。
割れたガラス。
暗い室内。
その窓の奥に――
一瞬だけ。
人影が見えた気がした。
朔夜が目を細める。
「……誰だ」
しかし。
そこにはもう、誰もいなかった。
ただ一匹の蝶だけが。
暗い窓の向こうへ消えていった。
このとき、神代朔夜はまだ知らなかった。
この蝶が。
これから先、
何度も自分たちの前に現れることを。
そして。
蝶が現れる場所には必ず――
「毒」と呼ぶには、
あまりにも奇妙な何かが残されていることを。
コメント
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読ませていただきました。まず冒頭の「蝶は、死体の上を飛んでいた」という一文で、一気に引き込まれました。情報が少ないからこそ漂う不気味さと、そこに集まる異様な数の蝶——視覚的なインパクトがとても鮮やかです。特に白瀬さんの「分からないから、気になるんです」という台詞が好きでした。科学的に説明できない違和感を、そのまま読者に残してくれるバランスが絶妙ですね。また、黒い蝶が時計の上に止まる場面は妙に耽美で、でもそこに確かな意味がありそうで……。神代さんの「偶然で済ませると見落とす」という信念が、これからどう事件を暴いていくのか、続きがすごく気になります。新連載、楽しみにしています🌷