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yume
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廃屋には、誰もいなかった。
「……やっぱり、いませんね」
小宮透が、暗い室内を覗き込みながら呟いた。
「分かってる」
神代朔夜は短く答えた。
事件現場から少し離れた場所にある古い廃屋。
外壁はところどころ剥がれ、 窓ガラスも何枚か割れている。
人が住んでいる気配はない。
だが。
朔夜は、先ほど確かに見た。
窓の奥にあった人影を。
「神代さん」
白瀬澪が廃屋の入口から声をかける。
「鑑識が入るので、あまり触らないでください」
「分かってる」
「……本当に?」
「何だ」
「さっき、一人で入ろうとしてましたよね」
「入ってない」
「入ろうとはしました」
「……」
朔夜は黙った。
澪は小さく息を吐く。
「神代さんは、もう少し人を頼ってください」
「必要なら頼る」
「その『必要』の判断が早すぎるんですよ」
横から橘が笑った。
「ははっ、澪ちゃん。それ言ってもこいつには――」
「橘さん」
「はい」
「笑ってないで周囲を見てください」
「はい」
橘は素直に散っていった。
小宮はそんな二人を見て、少しだけ笑う。
その表情もすぐに消えた。
「……先輩」
「何だ」
「これ」
小宮が、廃屋の入口付近を指差した。
床に、何かが落ちている。
小さな瓶。
透明なガラス製。
蓋は開いていた。
中には何もない。
朔夜はしゃがみ込む。
「触るな」
「はい」
「写真を撮れ」
「もう撮りました」
「早いな」
「現場に慣れてきたので……」
「そうか」
朔夜は瓶を見る。
ラベルは剥がされている。
匂いもほとんどない。
ただ。
瓶の底に、ごく薄い青色の液体が残っていた。
「……これか」
朔夜が呟く。
澪が近づいた。
「液体には触れないでください」
「分かってる」
澪はしゃがみ、瓶を観察する。
「青色……」
「毒物か?」
「まだ分かりません」
「見ただけじゃ無理か」
「はい」
澪は少し考える。
「ただ、普通の薬品には見えません」
「理由は?」
「色です」
「色?」
「青い毒物が珍しい、という意味ではありません」
澪は瓶を見つめる。
「問題は、この色が均一じゃないことです」
朔夜も目を凝らした。
確かに。
液体の青は、完全な青ではない。
光の角度によって、少しだけ緑にも紫にも見える。
「何かが混ざっている?」
「可能性はあります」
「植物由来か」
「それもまだ断定できません」
澪は瓶から目を離さなかった。
「でも……」
「何だ」
「この色、どこかで見たことがある気がします」
「どこで?」
「思い出せません」
澪が眉を寄せる。
その瞬間。
窓の外を蝶が横切った。
「……」
澪が顔を上げる。
朔夜も同時に窓を見る。
蝶は一匹。
黒い羽。
青白い模様。
先ほど朔夜の腕時計に止まったものと似ている。
「また……」
小宮が呟く。
蝶は窓の外を一周すると、 どこかへ飛んでいった。
朔夜は立ち上がった。
「追う」
「神代さん」
澪が止める。
「待ってください」
「何だ」
「蝶を追う必要がありますか?」
「ある」
「理由は?」
「さっきの個体と同じなら、この現場に何か関係している可能性がある」
「でも、蝶を追って犯人に辿り着けるとは限りません」
「分かってる」
「だったら――」
「だから確認する」
朔夜は廃屋の外へ出た。
「神代さん!」
澪の声が背後から響く。
「……本当に一人で行くんですか」
橘が呆れたように言う。
朔夜は足を止めた。
少しだけ振り返る。
「……来るなら早くしろ」
「はいはい」
橘が走ってくる。
「こういうところだけ素直なんだよな、お前」
「うるさい」
その後ろから、小宮も続いた。
「僕も行きます」
「お前は廃屋に残って資料をまとめろ」
「え?」
「監視カメラの映像も整理しろ」
「……はい」
小宮は少し残念そうにしながら戻っていった。
澪も廃屋へ戻る。
その直前。
「神代さん」
「何だ」
「戻ってきてくださいね」
「……当然だ」
朔夜はそれだけ答えた。
橘が隣で小さく笑う。
「心配されてんぞ」
「知ってる」
「分かってるなら、少しは無茶を――」
「蝶」
「え?」
朔夜が前方を指差した。
黒い蝶が飛んでいる。
「いた」
二人は走り出した。
蝶は道路を横切り、細い路地へ入っていく。
そして。
突然、姿を消した。
「……どこ行った?」
橘が周囲を見回す。
朔夜は立ち止まった。
目の前には古い石垣。
その下に、小さな水路がある。
水路の縁に。
青い染みがあった。
「またか」
朔夜がしゃがむ。
今度は地面だけではない。
水路の水面にも、薄い青色が漂っている。
「橘」
「ん?」
「写真」
「了解」
橘が撮影する。
朔夜は水路の周辺を見回す。
蝶はいない。
人影もない。
足跡も見当たらない。
なのに。
ここには確かに何かがある。
「……変だな」
「何が?」
「さっきの廃屋とここ」
朔夜は周囲を見渡した。
「どちらも、青い液体がある」
「同じもの?」
「分からない」
「でも、事件現場にも青い染みがあった」
「そうだ」
橘が少し考える。
「じゃあ、三か所」
「ああ」
「……偶然じゃないな」
朔夜は答えなかった。
代わりに水路の奥を見る。
そこに。
何か白いものが引っかかっている。
「……何だ?」
手袋をつけ直し、長いピンセットで引き寄せる。
一枚の紙だった。
水に濡れて、文字はほとんど消えている。
だが。
最後の一行だけは読めた。
『――蝶は、死んだ場所を覚えている。』
「……」
橘の顔から笑みが消えた。
「神代」
「分かってる」
「これ、誰が書いたんだ?」
「それを調べる」
朔夜は紙を袋へ入れた。
その瞬間。
背後から、小さな音がした。
カサ。
二人が振り返る。
誰もいない。
ただ。
路地の奥にある古い自動販売機の横。
一匹の蝶が止まっている。
黒い羽。
青白い模様。
朔夜が一歩近づく。
蝶は逃げない。
むしろ。
こちらを見ているように見えた。
「……なあ、神代」
「何だ」
「蝶って、人間の顔を覚えたりするのか?」
「知らない」
「だよな」
二人が黙って蝶を見る。
数秒後。
蝶が飛び立った。
今度はどこかへ逃げるのではなく。
二人の頭上を大きく一周してから、東の空へ消えていった。
朔夜はその姿を最後まで見送った。
そして。
左手の腕時計を見る。
午前七時四十八分。
針は正常に動いている。
何の異常もない。
なのに。
朔夜は、妙な違和感を覚えていた。
何かが始まっている。
そんな気がした。
その頃。 廃屋では――
「小宮さん」
澪が呼んだ。
「はい?」
「この瓶、分析に回します」
「分かりました」
小宮が瓶を受け取ろうとした。
その瞬間。
澪の手が止まった。
「……待って」
「どうしました?」
澪は瓶を見つめる。
「これ……」
「何か分かりました?」
「瓶の内側」
小宮も覗き込む。
透明なガラスの内側。
薄い青色の液体。
そして。
その液体の中に。
極めて小さな黒い粒が浮かんでいた。
「……これ、何でしょう」
澪は答えなかった。
ピンセットで慎重に取り出す。
黒い粒。
数ミリほどしかない。
それは。
植物の種子にも見えた。
しかし。
澪はそれを見た瞬間、ほんの少しだけ表情を変えた。
「……違う」
「え?」
「種じゃない」
「じゃあ、何ですか?」
澪は答えられなかった。
分からない。
ただ。
それが生物由来のものだということだけは、なぜか分かった。
そして。
その黒い粒には。
蝶の羽と同じ、青白い光沢があった。
その日の午後。
事件現場から回収された青い液体は、正式な鑑定へ回された。
結果が出るまで。
あと三日。
誰も知らなかった。
その三日後。
同じ蝶が、別の場所で発見されることを。
そして――
そこにはまた一人。
毒によって倒れた人間がいることを。
コメント
1件
第2話もめっちゃ面白かった…!青い液体と蝶の描写がすごくミステリアスで、続きが気になりすぎる😭💕 特に「蝶は、死んだ場所を覚えている」っていうメッセージ、ゾクッとした…!! 神代さんと澪さんの掛け合いも好きだな〜、頼らないと決めてるけどちゃんとチームで動いてる感がいいよね🥺 次の話、早く読みたいです…!!