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一方、病院。
「美咲! 白石さん!」
会社のシステムを救った後、僕は息を切らして、大学病院に駆けつけていた。
「お父さん! 遅いですよ、早く中へ!」
ベテランの風格を漂わせた助産師が、僕の腕をがっしりと掴んだ。
「いえ、僕は兄で、美咲の旦那は今、渋滞で――」
「妊婦が暴れすぎて人手が足りないの!いいから、これつけて早く入りなさい!」
助産師から手渡された防護エプロンを上から被る。
「……あ、あああああ!クソ痛ぇんだよ!!優馬のやつ何してんだぁぁ! 離婚だ、離婚!!」
分娩室は、本能が剥き出しになった修羅場だった。美咲の右ストレートが空を切り、回し蹴りのような脚が医師や助産師を襲う。僕はとっさに、大地さんとの特訓で得た「鋼のガード」を固めた。
「美咲、落ち着け! 深呼吸だ、深呼吸!」
「うるせぇお兄!お前にこの痛みがわかるかぁぁ!てめぇが産んでみろよ!」
一分間に一万のアクセスを捌くより、容赦のない美咲の膝蹴りと左右からのストレートを防ぐ方が遥かに過酷だった。
髪を掴まれ、爪で引っかかれ、僕は約一時間、美咲から医療チームを守るための「防波堤」になり続けた。
「……う、生まれるわ! お父さん、しっかり支えて!」
「だから僕は兄――うわっ、いだだだだっ!!」
捲り上げた僕の前腕に、美咲のスカルプネイルが肉に食い込むほど突き刺さる。
「優馬の――バカ野郎ぉぉぉぉ!!」
絶叫と共に、力強い産声が響き渡った。破水からわずか一時間の、超スピード安産だった。
***
病室のベッドには、生まれたばかりの女の子の赤ちゃんを抱いた、信じられないほど元気な美咲と、その傍らで平謝りする優馬がいた。
「美咲ぃぃ、ごめんよぉぉ……!」
「ったく」
一方で、僕はパイプ椅子に腰掛けたまま、抜け殻のようになっていた。シャツはシワだらけ、腕には美咲のネイルの跡がくっきり残り、髪は掴まれ、振り回され、鳥の巣を通り越して爆発したような有様だ。
「……ねぇお兄、なんでそんなボロボロなの?てかその髪、うける。ヤバすぎっしょ」
ケロッとした顔で笑う美咲に、僕は白目を剥いて力なく返した。
「……はあ? 全部、お前の暴走(暴行)を抑えてたせいだよ! 記憶にないのか?」
「は? アタシ、そんなことしてないし。それにしても酷い髪……優馬、悪いけどお兄の髪、なんとかしてやってくんない?」
見かねた美容師夫婦による、即席スタイリングが始まった。スタイリング剤と病室備え付けのドライヤーを使い、数分後――。
鏡の中、見知らぬ男と目が合った。 顔に疲れはあっても、瞳には生命力が宿っている。 シワだらけのシャツすら「勲章」に変えてしまうその佇まい。それは、過酷な戦場で大切なものを守り抜いた、一人の英雄の姿だった。
そこへ、病院の事務手続きを終えた白石さんが入ってきた。僕と目が合ったとたん、彼女は小さく息を呑み、その場に立ち尽くす。
「……白石さん。今日は美咲のために、色々動いてくれてありがとう」
僕が少し照れくさそうに言うと、彼女は頬を染め、慈しむような瞳で僕を見つめた。
「……いいえ。私じゃありません。今日の一番のヒーローは、間違いなく陽一さんですよ」
その言葉が、病室の空気を優しく溶かしていった。
「……ほら、お兄。だっこしてあげてよ」
美咲に促され、僕は壊れ物を扱うような手つきで、その小さな命を受け取った。僕の腕の中に、軽くて、けれどずっしり尊い、小さな命が収まっている。
腕の中に伝わる温もりを感じながら、僕は初めて、自分が成し遂げたことの重さを噛み締めていた。
#ワンナイトラブ
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