テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#夢
凪川 彩絵
母と顔を合わせたのは、翌日の終業後だった。
瑠璃香には、昨日同様帰りが遅くなる旨だけを簡潔に伝えてある。
ドアをノックし、室外から名乗るとすぐに声が返ってきた。
「入りなさい」
扉を開けると、母――新沼清香はデスクの向こうに座っていた。
書類から視線を上げ、静かに息子を見遣る。
「珍しいわね。あなたから来るなんて」
「少し、話があって」
清香はペンを置いた。
「仕事の話?」
「いや」
晴永は一歩、部屋の中へ進む。
「――私的な話です」
その言葉に、清香の眉がわずかに動いた。
「……へえ」
視線が、静かに晴永を測る。
「あなたが〝私的〟な用で私に話しかけるなんて、本当に久しぶりね」
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、清香だった。
「ひょっとして……女性関係?」
図星だった。
晴永は一瞬だけ目を細める。
「……さすがですね」
「母親ですもの」
ふっと微笑む。
だがその笑みは、どこか試すようでもあった。
「それで? どんな人?」
晴永は少しだけ息を吐く。
「会社の……部下です」
「部下? 同じ部署なのね?」
「……はい」
「……なるほど」
清香は指先を組み、ゆっくりと言った。
「つまりあなたは、その女性と結婚したいって言いたい?」
晴永は頷いた。
「そのつもりでいます」
すると清香は、ほんのわずか目を細めた。
「そう」
静かな声だった。
だがその沈黙は、どこか重い。
やがて清香は、椅子から立ち上がった。
窓際へ歩き、ブラインドを少しだけ開く。
夜の街を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……忘れたの? あなたには、許嫁がいるのよ?」
晴永は、瞬き一つしなかった。
「そんなの、俺の意志なんてお構いなしに母さんたちが勝手に決めたことだろ?」
「あなたの意志なんて問うつもりはないもの」
清香は振り返る。
その目は、いつものように冷静だった。
「あなたが子供のころには決まっていた話よ」
静かに告げる。
「うちと……向こうの家のためにね」
清香の言葉に、晴永は小さく息を吐いた。
「……その話は、聞いたことがあります」
幼いころ、何かの拍子に耳にした覚えがある。
だが、あまりにも現実味がなく、子供のころの戯言のように流していた。
まさか今になって、本気で持ち出されるとは思ってもいなかった。
「でも、それは昔の話だ」
晴永は静かに言う。
「俺は――会ったこともない相手と結婚するつもりはありません」
晴永の完全なる拒絶の言葉を聞いても、清香の表情は変わらなかった。
まるで、予想していた答えだと言わんばかりに。
「そう言うと思ったわ」
淡々とした声だった。
「だから念のため聞くけれど――」
清香はデスクの前に戻り、椅子へ腰を下ろす。
「あなたが結婚したいという女性……。その人とのこと、本当に本気なの?」
視線が鋭くなる。
「遊びじゃないの?」
「違います」
晴永は間を置かずに答えた。
「本気です」
清香はしばらく黙って晴永を見つめていた。
息子の表情を確かめるように、その覚悟を量るように。
やがて、ふっと小さく息をつく。
コメント
1件
お母様、お願いだから2人の邪魔をしないで?😢