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晴れ渡る空には、雲に代わって白球が浮いていた。
スタジアムを埋める3千の視線が、直径7センチの球に集まっている。
カキーン!
打者のバットを離れた球は、大きく弧を描いた。
しかし急降下した球は、外野手のグローブにすっぽりと包み込まれた。
横浜アイアンフェアリーズ二軍、今季の最終戦が幕を下ろした。
大きな拍手と歓声が、スタジアムの空気を揺らしている。
しかしその視線の多くは、たったひとりの人物へと注がれるものだった。
怪我の調整で二軍に籍を置く谷山(たにやま)ハルキが、声に答えるように高々と手を挙げた。
「ハルキさん、はやく肩治してね!」
「谷山、日本シリーズたのんだぞ!」
多くの声援と叱咤激励が、谷山ハルキにむけられている。
いつもは閑散とする二軍球場が、スター選手によって華やかな色を帯びていた。
南海ツトム(なんかいつとむ)はダグアウトの奥から、その光景を見ていた。
煌々と輝くグラウンドと、人々の歓声、懐かしいスタジアムの姿だ。
ツトムもかつては熱い声援を浴びるスター選手候補生だったが、一軍の公式戦で二度も気絶するという前代未聞の珍事件を起こし、以来二軍での悶々とした日々を送ってきた。
あれから5年。
いまだ一軍へと返り咲く機会は得られていない。
結果がすべてであるはずのプロの世界で、おそらくただひとりであろう、結果とは無縁の存在。
それが南海ツトムだった。
過去に起こした二度の気絶事件によって、首脳陣はツトムの起用に懐疑的だった。
もし一軍に復帰させて再び試合中に気絶するようなことになれば……。
球団の運営や選手の管理体制すべてが批判の的となるだろうから。
プロ野球という世界には、もう居場所などないかもしれない。
ツトムはふと、そんな思いに駆られる。
ケガや不調で二軍に降りてきた選手と、実力未知数の新人たちによって、ツトムが活躍できる場所などもはやどこにもないような気がしてならなかった。
グラウンドでは、今季を締めくくる閉幕セレモニーが行われている。
ツトムもグラウンドにでて、観客席にむけて深々と頭を下げた。
すべての視線と歓声は、ツトムのとなりに立つ谷山ハルキに注がれている。
セレモニーが終了すると、ツトムは逃げるようにロッカールームにもどった。
運動とは関わりのない疲れがどっと押し寄せ、へたり込むように椅子に座った。
うぐっ……うううっ……。
ロッカーの隅で、誰かがすすり泣いていた。
ツトムはペットボトルに手にしながら、さりげなく声の方を見た。
今季かぎりでの戦力外通告は免れないと噂される野手の高島が、ユニフォームに顔を埋めて震えていた。
二軍選手たちが続々とロッカーにもどるなか、ツトムは高島から目が離せないでいた。
震えるその姿が、どうにも他人ごととは思えない。
ツトムの今季での契約解除はないだろう、そうした見方が大半を占めるものの、呑気にシーズンの閉幕を楽しむ心境ではなかった。
「お疲れさまでした!」
二軍選手たちの元気な声が、ロッカールームに響いた。
声を浴びたのは、谷山ハルキだ。
谷山ハルキはわずかにあご先を沈めてから椅子に座った。
ツトムはちらりとハルキに視線をやった。
それから汚れのないユニフォームをバッグにねじ込み、選手寮のルームメイトである池畑洋一(いけはたよういち)に声をかけた。
「洋一、帰り支度は済んだか?」
「ああ、ツトムさん。これちょっと見てください」
池畑洋一は携帯電話の画面をツトムにむけた。
液晶画面にはスタジアムで記念撮影をする夫婦の姿があった。
「これは……ご両親かな?」
「ええ、ウチの親が、抜き打ちで試合を観にきてたんです。だから今日は、親孝行といういきなりの予定が入ってしまいました」
「わざわざ試合を観に、青森からいらしたのか。それはラッキーだな」
「ラッキー? チームが負けたのに?」
池畑洋一は怪訝な表情で、高背のツトムを見あげた。
今日のデーゲーム。
抑えとして登板した谷山ハルキが力投をみせたものの、序盤の大量失点を巻き返せずにチームは敗れた。
「ハルキが登板したおかげで、今日は満員御礼だったからな。
はるばる青森からいらしたのに、いつもみたいに空席だらけのスタジアムだったら、ご両親の心配は尽きないだろう」
「たしかにウチの親、野球のことなんも知らないですからね。客入りが判断基準のすべてかもしれませんね」
「親御さんの前でヒットも打ったことだし。二軍でそのふたつが同時に出揃うなんてそうそうないさ。スター谷山ハルキさまさまだ」
「たしかにそうかもしれませんね。じゃ、今日は気分よく親に会ってきます」
ツトムと池畑は無意識にスター選手をのぞき見た。
谷山ハルキはアイシングで固定した肩を、割れ物にでも触れるようにさすっている。
その姿を何人かの二軍選手が眺めていた。
憧憬や嫉妬が入り混じった目つきで――。
「……どうもここは居心地がわるい。さっさとでよう」
「そうしましょう」
ツトムと池畑洋一はロッカーを抜け、球場の裏口から外へとでた。
外気はすっかりと秋の衣をまとい、湿った落ち葉の香りが漂った。
傾きはじめた太陽が、ゆっくりと夜にむけて光を減らしつつある。
「あ、池畑選手!」
3名の熱心なファンが、池畑洋一に近づいてはサインや写真をねだった。
小柄な池畑は親しみやすい笑顔を浮かべ、ひとりひとりに丁寧な対応を行っていく。
少し離れた場所では、さきほど写真で見た池畑の両親が、感慨深そうに息子を見守っていた。
「洋一、じゃあな」
「はい、ツトムさん。また寮で」
ツトムは池畑に手を振り、愛車ジャガーFXの停めてある駐車場へと歩きだした。
しかし活気ある球場から離れるにつれ、不安が膨らんでいく。
来季もまたここにもどってこられるのだろうか。
明確な契約更新の通知が届くまでは、しばらく悪夢に苛まれる夜が続きそうだ……。
「失礼します。南海ツトムさんですね」
ひとりの男がツトムのあとについていた。
漆黒のスーツをまとった、鋭い目つきの男だった。
「どちらさまでしょうか」
背はツトムに肉薄するほど高い。
クールグリースで固められたオールバックが、磨きたての車のように光っている。
「南海さん。少々お時間よろしいでしょうか」
男は自らを美濃輪雄二(みのわゆうじ)と名乗った。