テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
私は、卑怯者である。私は、軟弱者である。
私は、愚か者である。
この事実だけは、どれほど酒に溺れても、どれほど女に認められても、薄まることはなかった。
浅草の外れ、雨の匂いが衣服に染みつく夜、私は一人の花魁に出会った。
いや、「出会った」という言い方は、いかにも「普通」の幸せを装っていて不愉快だ。正しくは、私は彼女を見たのである。見ることしかできなかった。 私は、軟弱者だから。
名を、紫乃(しの)という。
それは何処かの御伽噺から借りたような、
如何にも高尚で、いかにも嘘くさい名前だった。私はその名前を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた腐臭のような感情が、ふっと泡立つのを感じた。美しい名は、いつだって人を騙し、欺くのだ。
彼女は笑わなかった。
いや、口元は確かに弓なりを描いていた。
目だけが、死んだ魚のように澄んでいた。
瞬きを忘れた、迷子の魚のように。
うわべだけの笑顔である。
――ああ、この人は、この醜い世界に生きているのだ。
生きてしまっているのだ。
しかも、私よりずっと上手に。
その事実が、私をひどく惨めにした。
紫乃は、病人のように美しかった。
白粉の下に隠された肌は、まるで長年誰にも触れられていない像のようで、冷たく、ひび割れている気がした。私は彼女の指先を見るたび、自分の命が一本ずつ、丁寧に折られていくような錯覚に襲われた。
「先生は、何をなさっている方で?」
そう訊かれ、私は一瞬、返事に詰まった。
先生。
この国では、無職の男を慰めるために用意された、便利な呼び名である。
先生。紫乃の放ったそのひと言を、私は忘れることができなかった。
「……物を書きます」
嘘、ではなかった。
本当である。
ただし、売れない。読まれない。理解されない。
つまり、この世に存在しないのと同じような、がらくたな文章を、私は何年も書き続けていた。
「まあ、それはご立派」
紫乃はそう言って、初めてほんの少しだけ、目を細めた。
その瞬間、私は確信した。してしまった。
この女は、私を心底軽蔑している、と。
だが、不思議なことに、その軽 蔑は、私にとって甘い蜜の味がした。
私は紫乃に通った。金を工面し、友を失い、未来をも削って、彼女のもとへ通った。
彼女は決して、自分の不幸を語らなかった。
親の話もしなければ、故郷の話もしない。ただ、季節の花と、流行りの戯曲と、どうでもいい男たちの滑稽な噂話を、淡々と口にするだけだった。
紫乃は、私を狂わせた。
――この人は、何を想っているのだろう。
――何を諦め、何をまだ諦めていないのだろう。
私は自分が、彼女を救いたいのか、それとも自分が救われたいのか、分からなくなっていた。おそらく、その両方なのだろう。そして、その願いはあまりにも傲慢すぎることを、私は薄々理解していた。
ある夜、酔った勢いで、私は言ってしまった。
「あなたは、不幸ですか」
紫乃はしばらく黙り、それから、まるで子供が算盤を壊したかのような顔で、こう答えた。
「不幸でなければ、花魁などやっておりませんよ、」
先生。
紫乃の正直さが、私には残酷すぎた。
あれから私は、紫乃の所へは通っていない。
いや、通えていないのである。
また、先生と言われてしまったら。
私は、卑怯者である。
私は、軟弱者である。
私は、愚か者である。
私は、この世で1番、惨めである。
それと同時に、
私が、この世で1番
人間なのだ。