テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
29
僕は反射的に、椅子をガタつかせて一歩下がった。
心臓が警鐘を鳴らす。
パーソナルスペースを土足で踏み荒らされたような感覚に、喉の奥がヒリついた。
「そ、その…っ、近い……から」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど細く震えていた。
しまった、と思った時にはもう遅い。
こんな拒絶の仕方をすれば、普通なら不機嫌になるか、鼻で笑われるかのどちらかだ。
けれど、天馬くんは「あっ」と小さく声を漏らすと弾かれたように身を引いた。
そして、気まずそうに金髪の後頭部をがしがしと掻く。
「ごめん。俺、距離感バカっつーか、近いってよく言われるんだよな」
彼は苦笑いを浮かべながら、僕が威圧感を感じない距離まで、ちゃんと言葉通りに離れてくれた。
怒鳴られない。
馬鹿にされない。
暴力的なまでの「正論」で僕を傷つけたりもしない。
その当たり前の配慮に、毒気を抜かれたような思いで立ち尽くしてしまった。
「えっと、水瀬だっけ?」
「…う、ん」
「俺、天馬結翔。一応、同じクラスなんだけど…」
「そ、それは……知ってる。…というか、知らない人、いないと思う」
自嘲気味に呟いた言葉は、本心だった。
天馬結翔
その名前は、一ヶ月も経てば嫌でも耳に飛び込んでくる。
休み時間のたびに彼の周りには自然と人の輪ができ、弾けるような笑い声が教室の空気を震わせる。
彼は太陽で、僕はその影に潜む何者でもない存在だ。
住んでいる世界が、文字通り違いすぎる。
「あはは、有名人なら光栄だわ。……でさ、もっかい聞くんだけど。水瀬って、どんな絵描いてんの?」
屈託のない質問。
けれど、その言葉は僕の防衛本能を鋭く刺激した。
途端に、肩が石のように強張る。
視線が、机の上に置かれたスケッチブックへと吸い寄せられた。
まだ描き途中の風景画。
放課後の窓から見える、燃えるような夕焼け。
そのグラデーションを、薄く色鉛筆で何度も重ね、納得のいく色を探していた。
────見られたくない。
内面を覗き見られるような恐怖に襲われ、考えるより先に体が動いた。
僕はひったくるようにスケッチブックを抱え込み、胸元に隠すようにして丸まった。
「あ」
天馬くんの短い声が、静かな美術室に響く。
やってしまった。
脳裏に、中学の頃の冷ややかな視線がフラッシュバックする。
『感じ悪い』『自意識過剰』。
そんな言葉が、彼の口から今にも飛び出してくる気がして、僕はぎゅっと目を閉じた。
謝らなきゃ。
嫌われる前に、これ以上攻撃されないように、謝らなきゃいけない。
「ご、ごめ……っ」
「ん?」
「ち、違くて…その、見せるようなものじゃ、ないから……っ、ごめん」
焦れば焦るほど、言葉はもつれて、支離滅裂な音の塊になって零れ落ちる。
どうしよう、とパニックになりかけた僕の視界で
天馬くんがふっと力を抜いたように笑う気配がした。
「そっか。…もしかしなくても水瀬、人に見られるの苦手なタイプ?」
「……っ」
あまりにも正確に心臓を射抜かれ、言葉を失う。
僕が金縛りにあったように固まっていると
「あ、恥ずかしかったら無理って言ってくれればいいし」
「……え?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。
天馬くんは、僕のスケッチブックを無理に覗き込もうとする素振りさえ見せず
近くの机の角にひょいと腰掛けた。
拒絶されたことを気にする様子もなく、ただそこにある空気に馴染むように。