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番外編 【新田は書店で気づかれないように立ち止まる】第四話
その本を最初に見つけたときのことを、彼は思い出していた。
新人賞の落選原稿。
ひどくて、めちゃくちゃで、でも捨てられなかった文章。
会ってみると、拍子抜けするほど拗れていて、想像以上に手のかかる男だった。売れないことに傷ついているくせに、売れるために必要な修正には素直じゃない。自分の文章を信じたいのか捨てたいのか、本人がいちばんわかっていなかった。
何度、見切りをつけようと思ったかわからない。
そのたびに、あの男の書く一文が邪魔をした。
たとえば、冬の台所の水の冷たさ。
夫婦のあいだに落ちる沈黙の重さ。
野良上がりの猫の、世の中を少し斜めに見ているような目つき。
ああいうものを、妙に正確に書いてしまう。
だから新田は離れきれなかった。
「まったく……」
小さく呟く。
もちろん誰に向けた言葉でもない。
担当作家に対して半分、過去の自分に半分だった。
期待するから腹が立つ。
惚れた文章だから、投げられると苛立つ。
どうでもよければ、もっと楽なのに。
文芸の棚は静かだった。
遠くでレジの電子音が鳴る。
ページをめくる音がする。
誰かが咳払いをする。
そういうささやかな音のなかで、新田はしばらく立ち尽くしていた。
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