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*名前の使い回しなどありますが、過去のお話とは関係のないお話となっています*
一杏へ。
あなたに手紙を書くのは、これが初めてじゃありません。
でも、
こうして最初から、順番に書こうと思ったのは、たぶん今日が初めてです。
だからまずは、
あなたが生まれた日の話から始めますね。
あなたは、雨の日に生まれました。
国宝(こくほう)家の長い歴史の中でも、あんなに静かな雨は珍しかったそうです。
由緒ある貴族の家だとか、
裕福で何不自由ない暮らしだとか、
あなたはきっと、
生まれた時からそんな言葉に囲まれていたでしょう。
でもその日、屋敷はひどく静かでした。
広い廊下も、磨き上げられた床も、まるで音を忘れたみたいで。
私は四歳で、
理由もわからないまま、
一人で窓の前に立っていました。
雨粒が落ちるたび、
庭の石畳が小さく光って、
それがきれいで、
少しだけ怖かったのを覚えています。
「娘雨(こさめ)」
母に呼ばれて振り返ると、
彼女はいつもより背筋を伸ばし、
貴族の夫人としての顔をして立っていました。
「あなた、お姉ちゃんになるのよ」
そう言われたとき、私はうなずいたと思います。
いい子でいることが、
国宝家の娘として当たり前だったから。
――お姉ちゃん。
守る人。
譲る人。
その意味を、
私はまだ知りませんでした。
あなたは、
屋敷の時計が鳴った直後に生まれたそうです。
遠くで雷が小さく鳴って、雨音が一瞬だけ強くなった、その時。
まるで世界が、
「この子は特別だ」と
宣言したみたいに。
名前も、すぐに決まりましたね。
国宝 一杏(いあん)。
すてきな名前。
この名前が有名になるのは、
貴族の間だけでだと思っていました。
雨の日に生まれた、宝物。
宝生家の血を引く娘。
将来を約束された存在。
誰もが、
あなたの未来は輝いていると信じて疑いませんでした。
父は、
「一杏は運がいいな」
と笑っていました。
私とあなたを同時に抱き上げて、
少し誇らしそうに、
少し安心したように。
あの人の腕は、温かくて、
力強くて、
ずっとそこにあるものだと、
私は疑いませんでした。当たり前だと思っていたのです。
母は、
あなたの小さな手を見つめながら、
静かに言いました。
「この子は、完璧になるわ」
それは、期待というより、
決定事項のような言い方でした。
――完璧。
当時の私は、それがどれほど残酷な言葉か、
まだ知りませんでした。
あの頃の我が家は、
まだ、ちゃんと家族でした。
父は食卓にいて、
母は微笑み、
使用人たちは必要以上に丁寧で、
私は、
あなたの指をそっと握っていました。
あなたは、本当に、不思議な赤ん坊でしたね。
ほとんど泣かなかった。
お腹が空いても、
抱き上げられなくても、
しばらくは静かに、
世界を観察するみたいに目を動かして。
その代わり、
ふとした瞬間に、
胸がきゅっとなるほど
きれいに笑いました。
その笑顔を見るたびに、
大人たちは言いました。
「なんて明るく綺麗な子」
「強いわね」
「さすが、国宝家の娘」
私は、その言葉が好きでした。
あなたが褒められるたび、
自分まで誇らしくなって。
――姉として、
あなたのそばにいられることが、
誇りだったのです。
でも、一杏。
泣かないことと、
苦しくないことは、
同じじゃありません。
それを、
誰も教えてくれませんでした。
私も、
気づかないふりをしました。
雨は、その日だけで止みました。
翌朝には、
何事もなかったかのように空が晴れて、
国宝家の日常が戻ってきました。
けれど、
今ならわかります。
あの日から、
私たちの家には、
目に見えない雨が降り始めていた。
静かで、
冷たくて、
少しずつ、
心を濡らしていく雨。
……今日は、ここまでにします。
あなたが生まれた日のことを書くので、
もう、精一杯です。
なんてたくさんの記憶が、思い出が、あるのでしょう。
雨の日に生まれた宝物。
あなたは最初から、
世界に選ばれていました。
それが、
あなたの人生を
どこへ連れていくのか――
あの頃の私は、
まだ、何も知りませんでした。