浅い眠りから覚めると、ちょうど病室に、医師が入って来たところだった。
母が、立ちあがって頭を下げる。母は、伸が入院して以来、病院に通うために、カフェの営業を午後からにしている。
医師が、母に向かって言う。
「どうぞお座りになってください」
それから、母と伸の顔を見ながら言った。
「少しよろしいですか?」
医師は言った。
内臓の働きが少し弱っているものの、疾患というほどのレベルではない。それにも関わらず、食欲不振と体調不良が続いている。
内臓以外の原因の一つとして、心因性のものが考えられるが、何か心当たりはないか。一度、心療内科の医師の診察を受けてはどうか、と。
話を聞いた母は、心配そうに伸を見つめている。
伸は、医師に聞いた。
「それは、悩みがあるかとか、そういうことですか?」
医師がうなずく。
「そうだね。君の場合だったら、たとえば、学校で、何か嫌なことがあったとか」
「嫌なことなんて、別にありません。少なくとも、具合が悪くなるようなことは」
松園たちには、ずいぶんひどいことをされたが、今に始まったことではないし、それも、最近では止んでいる。行彦と出会ってからは、むしろ毎日が幸せだったのだ。
「そう。でも、自覚していなくても、ストレスになっているということもあるからね」
心因性の原因などないと言ったにも関わらず、その日の午後、心療内科の医師が病室にやって来た。学校のことや家でのことを、根掘り葉掘り聞かれた。
学校に友達がいないことを知ると、医師は、ふんふんと意味ありげにうなずいていたが、それは小さい頃からずっとそうだし、そんなことが原因であるはずがないのは、伸自身がよくわかっている。
もちろん、松園たちのことや行彦のことは話さなかった。誰にも話すつもりはないし、誰にも知られたくない。
僕は、再び悪夢に悩まされるようになった。学校でいじめられる夢ではない。あの女の夢だ。
あの女はいつも、突然ドアを開けて、ずかずかと部屋に入って来る。
「ボクちゃん、大きくなって」
そう言いながら、ベッドのすぐそばまでやって来る。
「ボクちゃん、お母さん、会えてうれしいわ」
白い肌。貧相な体つき。目を見開いた、狂気じみた笑顔。
「ボクちゃん」
女は、笑顔を張りつかせたまま、両腕をこちらに伸ばして来る。身動き出来ずにいる行彦の体に、細い両腕が絡みつく。
「やめろ!」
僕は、汗みずくで飛び起きる。
いつものように、ベッドであお向けになって、ぼんやりしていると、病室の入り口で声がした。
「失礼します」
目を向けると、立花芳子が入って来た。伸は、あわてて起き上がる。
「安藤くん……」
一瞬、気遣うような表情をした後、笑顔になって言った。
「おうちの方は?」
「昼前に帰りましたけど」
「そうなの。これ、お菓子なの。よかったら召し上がって」
そう言って、ホテルのロゴが入った包みを、サイドテーブルの上に置いた。
「すいません。……あっ、その椅子にどうぞ」
壁に寄せて置いてあるパイプ椅子を指すと、立花は引き寄せて、ベッドのそばに座った。
「具合はどう? って言っても、あまりよさそうには見えないけれど」
「はぁ……」
ずいぶんはっきりと言うものだと思うが、自分でも、ひどい見た目なのはわかっている。
「あのとき、救急車を見送ったきりだったから、どうしているかと気になって」
伸は頭を下げる。
「あのときは、ずうずうしく訪ねて行った上に、迷惑をかけてすいませんでした」
立花は、静かに首を横に振った。
「そんなことはいいのよ。ただ、安藤くん、洋館のことをずいぶん気にしているようだったから」
じっと見つめる伸に、立花は、ちょっと微笑んで見せてから話し始めた。
「あのね、あの洋館は、何年も前から、本当に誰も住んでいないのよ。それは今回、業者の人が中を調べて再確認済みなの。
入り口が壊れていて、人が入ったり、ホームレスが生活していた形跡もあるけれど、それだけよ」
「でも」
そんなはずはない。現に、行彦が暮らしているではないか。
さえぎろうとした伸に、立花は、うんうんとうなずいてから、さらに言う。
「あの洋館は、響子さんが亡くなったときに、私が相続というか、便宜上、管理人になったのよ。でも、離れたところに住んでいて、手が行き届かないし、若者が入り込んだりして、地元の人から苦情が出ていたの。
それで、なんとかしなくちゃいけないと思いながら、処分するにも、お金がかかるし、思いあぐねていたのよね。そんなときに、再開発の話を打診されて」
立花が一呼吸置いたところで、すかさず伸は言う。
「だけど、行彦くんはどうするんですか? 立花さんと一緒に暮らすんですか?」
「そのことだけど……」
立花は、乱れてもいない前髪を指で直してから、言いにくそうに口を開いた。
「安藤くん、やっぱり、何か勘違いしてるんじゃないかしら。それか、人違いかもしれないわね。
響子さんの息子の行彦くんなら、本当に亡くなっているし、二人とも桐原家のお墓に入っているわ」
そんな馬鹿な……。