「失礼だけど、安藤くん、精神的に疲れているんじゃ……」
「そんなことないです!」
思わず、声が大きくなってしまった。立花が、落ち着かせようとするように、掛布団の上から、そっと伸の膝の辺りを手で押さえる。
「あのね、今日は報告があって来たのよ。今言ったような経緯があって、ようやく明日から、洋館の解体工事が始まることになったの。
安藤くんには、是非伝えておきたいと思って」
その日の夜、消灯時間を待って、伸は、病衣から私服に着替えた。かろうじて午後九時台までは、病院前のバス停から駅行きのバスがあることを、昼間のうちに調べてある。
今の体調では、洋館までの距離を歩いて行くのは困難だと判断した。駅からは、タクシーに乗ろうと思っている。
財布を入れたショルダーバッグを肩にかけると、そっと病室を抜け出し、夜間出入口から外に出た。
駅までは、問題なく着いた。タクシー乗り場で、ドアを開けてくれたタクシーに乗り込みながら、運転手に告げる。
「植物園まで行ってください」
初老の運転手が、バックミラーを見ながら言う。
「植物園って、山の麓の?」
「はい」
運転手は、なかなか発車しようとしない。
今度は振り返って、伸の顔をまじまじと見ながら言った。
「植物園なんて、この時間とっくに閉まってるだろう? なんの用だい?」
伸は、適当に言葉を並べる。
「昼間行ったときに、忘れ物をしちゃって。明日の授業で使うんです」
「そうかい」
運転手は、不審そうな顔をしながらも、前に向き直って発車した。
「ありがとうございました」
運賃を渡し、降りようとする伸に、運転手が言った。
「真っ暗だけど、大丈夫かい?」
通りには街灯があるものの、木々の奥に向かう、植物園に続く遊歩道の先は、闇に溶けている。だが伸は、ショルダーバッグのファスナーを開けて、小ぶりな懐中電灯を取り出して見せた。
「これがあるんで」
病院内のコンビニを探し、幸運にも見つけたものだ。洋館の中を進むときのために買った。
だが、運転手は、さらに言う。
「なんなら、忘れ物を取って来るまで、ここで待っていようか?」
とても優しい人だ。ありがたいが、それは困る。
「いえ。この後、近くの友達の家に行く約束をしてるんで」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待って。……これ」
ダッシュボードから何か取り出して、伸に差し出す。タクシー会社の電話番号が書かれた名刺だ。
「必要になったら電話して」
「ありがとうございます」
タクシーが去るのを見届けてから、伸は踵を返し、奥に向かって数歩進んだ遊歩道から通りに戻る。親切な運転手は、具合の悪そうな少年が、こんな時間に一人で植物園に行くと聞いて、心配してくれたのだろう。
嘘をついたことを申し訳ないと思う。だが、さすがに洋館に行ってくださいとは言えなかったのだ。
もしもそう言っていたら、もっと心配されていたかもしれない。
その洋館は、ここからそう遠くない。数日ぶりに、やっと行彦に会える。
行彦は、突然行かなくなった伸のことを怒っているだろうか。それとも、寂しさに泣いているか……。
とにかく、もう間もなく会うことが出来る。伸は、重い足を引きずるように歩きながら、坂道を上る。
洋館の門の前には「立ち入り禁止」の看板が立てられ、ロープが張り巡らされていたが、いつもの塀の破損した部分から、難なく敷地内に入ることが出来た。
三階の角部屋を見上げると、窓から灯りが漏れているのが見える。あぁ、やっぱり。
立花さんは、おかしなことを言っていたが、やっぱり、行彦はあそこにいるじゃないか。あの人のほうこそ、おかしいのではないか。
行彦が中にいるのに、工事が始まったら大変だ。早く行彦に知らせなくては。
なんなら、うちに連れて行ってもいい。事情を話せば、お母さんだって反対しないだろう。
伸は、取り出した懐中電灯を点け、建物の中に入る。もう何度となく三階まで上っているので、迷いはない。
階段を上るのが大変で、息が切れ、途中で何度か休まなくてはならなかったが、ようやく懐かしいドアの前にたどり着いた。伸は、いつものように、二度ノックする。静かにドアが開く。
会えない間、何度となく頭に思い描いた美しい顔、華奢な体、甘くかぐわしい香り。今、愛しい行彦が目の前にいる。
「伸くん」
言いながら、行彦の顔が歪み、滑らかな頬に、大粒の涙があふれては落ちる。伸は胸がいっぱいになって、両腕で行彦を抱きしめた。
伸のやつれた姿を見て、行彦は、涙をこらえることが出来なかった。やはり自分のせいだ。
途中から、こうなることは薄々わかっていた。健康的で、一見、悩みなどなさそうに見えた伸は、会うたびにやつれて行った。
自分と愛を交わすたび、伸は弱って行く。このままでは、取り返しのつかないことになってしまう。
そう思いながら、伸を遠ざけることが出来なかった。
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