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減速を促すように、向かい風が立ちはだかる。
それを突き破る傭兵の脚力は、嵐かハリケーンか。
青空の雲を追いかけるように。
そして、それらを追い越すように。
ウイルは野原の上を疾走する。
右足で大地を蹴り上げ、浮遊感を堪能する間もなく左足もそれに続く。
普段なら両手を前後に振り回すのだが、今日に限っては右手だけだ。
左腕は赤ん坊を抱くように少女を支えており、それゆえに動かすわけにはいかない。
朝陽を一身に浴びるここは見渡す限りの草原地帯だ。
マリアーヌ段丘。海に面するここは穏やかな斜面が点在するものの、その多くは平坦な大地で構成されている。
イダンリネア王国はその北東に位置し、地理的にその場所は防衛という側面において最適だ。北と東が大海原なため、西と南にだけ注意を払えば済む。巨人族や魔女が攻めあぐねる理由はそういった背景からきている。
朝一番に出発し、草原を西へひた走る傭兵。ここまでならありきたりな情景だ。傭兵なのだから、魔物を倒すための移動は日課に等しい。
しかし、今回は少女をその腕に抱いている。戦力にはならないばかりか、病人以上の足手まといだ。そうであろうと関係ない。そもそも彼女こそが本件の依頼人なのだから。
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
「うん」
ウイルにとっては三か月ぶりの二人旅となる。
もっとも、相方はエルディアではなくパオラであり、立ち位置は以前とは別物だ。
自分がこの子を守らなければならない。旅立つ前なら医者のアンジェを頼れたが、ここからは孤軍奮闘ゆえ、気を抜くことは許されない。
(あ、これ、案外足にくるかも……。だとしても頑張らないと)
この旅に限っては、普段通りの全力疾走は厳禁だ。抱きかかえているパオラを激しく揺らさないためだが、一方でゆっくりと走ることも選択肢としてはありえない。
五日間という医者から課せられた期限内に帰国しなければならず、上半身の揺れを最小限に抑えるような走り方に徹する必要もある。
そのためには腰の高さを固定せねばならず、つまりは両脚だけを稼働させて走るしかない。
そうであろうとその速度は驚異的だ。走力は一般市民とは比較にならず、もしこの脚力を城下町で披露しようものなら、周囲の通行人は強風にあおられ吹き飛ばされてしまう。
そういった背景から、王国法は傭兵や軍人に対して町中での全力疾走を禁じている。国民にけがを負わせないためだが、建物さえも損壊しかねないのだから、このルールは必然と言えよう。
しかし、ここは既に領土の外。ならば目的地に向かって分け目もふらずに走るだけだ。
(白紙大典的にはどう思う? やっぱり、この子を連れて行くのは危険かな?)
旅立ってもなお、パオラに関する懸念点は拭えない。
ゆえに、今更だが自問自答するように彼女へ問いかけてしまう。
(大丈夫でしょ。ここ何日かで生命力がぐぐんって補充されたし。いやまぁ、医学的なことを訊かれたらわからんちんだけど)
声の名は白紙大典。四年前、ウイルが契約を結んだ魔導書だ。人間ではなく真っ白な古書なのだが、人格を宿しており頭の中でも会話が出来てしまう。
この存在との出会いがきっかけで、ウイルは傭兵としての道を歩み始めた。この少年はエルディアと白紙大典の二人に支えられたからこそ、今があると言えよう。
(薬のおかげか、点滴なのか、はたまたご飯なのかは僕もわからないけど、確かに血色は良くなったよね。土っぽい肌が今では僕と大差ないし)
(そだねー。なーんか、髪の毛もさらっさらになってない?)
パオラを運びながら、傭兵は草原を駆ける。普段が跳ねるような走り方なら、今回は頭上から押さえられながらのさながら修行じみた態勢だが、荷物を庇わなければならない以上、やむを得ない重労働だ。
白紙大典の指摘通り、少女の青い髪はふわりと輝いている。入院中の入浴により、体の垢と頭髪のふけは洗い流され、今では小奇麗な女の子へ早変わりだ。ミイラのように痩せていることに変わりないが、洗濯されたワンピースも清潔感溢れるほどには白い。
(言われてみれば、アンジェさんみたいな良い匂いがする。同じ石鹸とか使ったのかな?)
(お、ウイル君が珍しく変態さんみたいなこと言ってる。私に似てきたんじゃない?)
(びゃ、びゃくし……さん? つまんない冗談はよしてください。投げ捨てますよ?)
顎のすぐ下にはパオラの頭がある。顔を少し傾ければ、髪と頭皮の匂いが鼻腔に届いてしまう。走っている最中ゆえ、空気はあっという間に置き去りになるも、漂う香りが消えるわけではないのだから匂いは嗅ぎ放題だ。
(おっぱいフェチで脚フェチで、さらには匂いフェチ……か。将来有望だね)
(おっぱいフェチは白紙大典の方でしょ。ハクアさんの控えめな胸で我慢すればいいものを……)
(それは言わない、お・や・く・そ・く。お姉さんの煩悩は止まらないの。それはさておき、何の話だったっけ?)
(パオラが長旅に耐えられるか……、です)
両者の性癖について暴き合ったところで不毛以外の何者でもない。本題はパオラについてであり、出発した後ながらも議題としては有意義だ。旅の完遂には依頼人の体調が深くかかわっている。もしも悪化するようなら、中断はやむを得ない。
(さっきも言った通り、もう大丈夫。見た目はゲッソリのままだけど、命は完全に復活したから。本当に、この子は私達が探している超越者なのかもしれないよ? 旅が無事終わったら、ハクアに報告しに行こっか)
体を持たぬ彼女だが、その発言には重みがある。そもそも嘘をつくような性格ではなく、ウイルもそのことを理解しているからこそ、両足に力が宿る。
(うん、そうしよう)
(私が知ってる生まれながらの超越者って五人、あ、いや、六人しかいないけど、この子も間違いなく同類。多分だけど、ハクアに預ければ半年くらいで君のこと追い越しちゃうと思うよ)
白紙大典の冗談めいた発言が、わずかにだが傭兵の速度を減速させてしまう。
にわかには信じがたい。腕の中の少女がいかに天賦の才能を持って生まれてこようと、今は荷物よりも軽い体だ。強くなるための鍛錬にはおおよそ耐えられるとは思えず、なにより半年のくだりには反論したくもなってしまう。
(い、いやいや、僕も少しは強くなりましたし……。エルさんにだって……、この前は負けちゃいけど。だから、ちょっとやそっと鍛えてもこの子が僕に追い付けるはず……)
(それがあるんだなぁ。まぁでも、半年じゃ足りないかも。一年くらい?)
(フォローにすらなってない……。先月、壁を越えられたおかげで一皮むけたと思ってたのに。今ならあの時のエルさんにだって負けない自信あるのに……)
(甘い甘い。ハクアの髪の毛よりも甘いよ。君だって知ってるでしょ? 努力したところで到底届かない相手がこの世界にはいるってことを)
(ええ、まぁ。だけど……)
指摘されずとも、ウイルは知っている。この大陸には人知を超えた脅威が息を潜めているということを。
軍隊ですら手も足も出ない魔物が少なくとも四種確認されており、それ以外にも巨人族等の魔物が人間を狙っている。
その筆頭が白紙大典と因縁のある災厄だ。それがイダンリネア王国を滅ぼすよりも先に、立ち向かえる人間を探さなければならない。
(この子がそうだとしたら、もう心配はいらないけどね。はー、ハクア達は何をしてたのかねー。あっさりと見つかっちゃったじゃない)
澄んだ声が呆れるようにつぶやいてしまう。
探し始めて既に四年近くが経過しているのだから、その年月は決して短くはない。そのはずだが、白紙大典としてはあっという間の出来事だった。
(考え方が違うと思いますけど……。パオラが……、うーむ、何て呼べばいいんだろう? 救世主? うん、とりあえず救世主でいいか。仮にそうだとしたら、この子が生まれてくるまで待たなければなりませんし、それ以前に何百年かけて探そうと無駄骨だったってことです。僕とこの子がたまたま同じ時代に生まれたからこそ、こうして巡り会えたと言いますか、僕が偶然にも見つけられたってだけで、まぁ、総括すると運が良かっただけだと思います)
(なーるほどねー。私やハクアには出来ない物の捉え方だぁ。んでもって、救世主って呼び方もイイネ)
(英雄はもう存在してますし、消去法でそれくらいかなぁ、と思って……。白紙大典やハクアさんはどういう風に呼んでたんですか?)
(今度こそあいつを倒せるやつ、かな)
(なんだろう……、エルさん並にセンスないですよね、お二人って。教養の差? いや、ハクアさんは僕なんかよりもすごいか……)
(くったくない感想が私を傷つける……。もう寝る! おやすみ!)
率直な意見が頭の中の同居人を傷つけるも、実は日常茶判事でもある。ウイルは元貴族ゆえ、無意識に他人を見下してしまうことがあり、その対策として白紙大典はふて寝を選択するのだが、この問答もよくあるパターンだ。
突発的に発生した討論会が閉会するも、少年は走ることまでは止めない。今はひたすらに進むしかなく、目的地はまだまだ先だ。
空気の衝突音と足音に包まれながら、少女は年長者の腕の中で物静かに景色を眺める。
見渡す限りの青い草原。
障害物に邪魔されない、無限遠の大空。
初めて見る風景ばかりだ。緑色の瞳が輝きだす。
「すごい」
なにより速い。歩くことさえままならなかったパオラにとって、傭兵の走りは未知の領域だ。感嘆の声が自然とこぼれてしまう。
「んー? あぁ、ここはマリアーヌ段丘だよ。雑草しか生えてないけど、もう少ししたら森が見えてくるからね。このあたりには草原うさぎって魔物がいるんだけど、触るのは帰り道でいいかな? 行きはもりもり進みたくて」
「うん」
イダンリネア王国を一歩外に出れば、そこは魔物の縄張りだ。ウイルの言う通り、平和そうなこの地域にも草原うさぎと呼ばれる外敵があちこちを闊歩している。その名の通り、うさぎのような姿をしているのだが、全長はウイルの股間付近にまで達する。見た目こそ愛くるしいものの、ひとたびちょっかいを出せば殺意をもって反撃されてしまう。
そうであろうと問題ない。この傭兵にとってこの付近の魔物は練習相手にすらならない相手だからだ。
走る。
少女を抱えて走り続ける。
強風を真正面から受け続けるため、灰色の短髪は立ち上がり、おでこは丸見えだ。
白茶色の半袖と黒いハーフパンツが肌に張り付くも、汗はまだかいておらず汚れも見当たらない。
着ている防具の名前はバースレザーアーマー。傷だらけなそれは魔物の皮を重ね合わせて作られており、上半身のさらに上半分を守ってくれている。
鉄製の短剣を腰に下げており、その出で立ちは紛れもなく傭兵のそれだ。
ウイル・ヴィエンとパオラ・ソーイング。二人はついに出発した。
目的地はジレット大森林。父親の遺体を探すための、むなしい旅路だ。
◆
「おかわりもあるからね。あ、ゆっくりでいいよ」
「うん」
草原を絨毯代わりに、少年と少女は肩を並べて座っている。
透き通るような青空の下、手渡されたパンをそっと口に運ぶ女の子。
それを見守る年長者。
微笑ましい光景ながらも、少女の外見が痩せこけているため、その点が違和感を生み出してしまう。
昼食と呼ぶにはまだ早い時間帯だ。それでも、ウイルは医者から指定された通りに、同行者へ食事を促す。
(食事は一日に六回……か。一度にいっぱい食べられないからってことらしいけど、理にかなってると言えばその通りな気もするし、休憩にもなって丁度良いかな)
パオラに関する三人の見解はバラバラだ。
ウイルは医学の知識を持ち合わせていないという自覚から、判断を医者に委ねる。
そのアンジェだが、当然ながら今回の旅には反対だ。飢餓状態を脱却したとは言え、少女の容態は危険水域を脱却していないと診断した。
一方、白紙大典だけは完全に看破している。彼女の特技により、パオラの生命が十分回復したと見抜けており、食事さえ与え続ければ、どれほどの長旅であろうと問題ないと理解している。
そうであろうと、そして過保護かもしれないが、この少女は健康ではないという前提で接することが重要だ。
(そうか、この時間って僕暇なんだ……。休んでればいいんだけども、ううむ)
今は朝食と昼食の丁度中間だ。ウイルがパンをほうばる必要はなく、そもそも空腹ですらない。
周囲に魔物は見当たらず、そういう場所を選んだのだから平和そのものだ。
ゆえに、することがない。
パオラの食事を見守ることが仕事なのかもしれないが、当人は無表情で丸いパンをチビチビと食しており、アクシデントが起きるとは思えない。
つまりは、退屈だ。体力の回復に努めれば良いのだが、たいした距離を走ったわけでもなく、少女がパンを一個完食する頃にはスタミナの補給は完了するだろう。
(あぁ、せっかくだし色々教えてあげようかな)
そう思いたくなるほどには、パオラの知識は少なすぎる。父親から何も教わっていないからだが、この世界で生きていくためには教養も武器の一つになりえる。知らないことは罪であり、少なくともウイルは貴族としてそう教わってきた。
今は単なる傭兵だが、その考え方までは忘れてはいない。
魔物と戦う人間が、数学や歴史学を学ぶ必要はないが、それでも知っておくべき事柄は山ほどある。
ウイルはそれを一つずつ教えることから始める。
「魔法や戦技って知ってる? あ、食べながらで大丈夫だよ」
「ううん……、しらない」
予想通りの反応だ。
ウイルはその返答を受け、実演を交えながら授業を開始する。
「どっちも似たような物ではあるんだけど、ようは念じるだけで炎が出せたり、風を吹かせたり、足が速くなったり、と色々なことが出来て……。僕も二つ使えるんだけど、例えばこれ……、コールオブフレイム」
その詠唱を合図に、少年の体から発光する泡が立ち昇る。それはあっという間に霧散するも、入れ替わるように少年の拳が炎をまとった。
魔法。無から有を生み出す神秘の一つ。破壊に特化した攻撃魔法、傷を治す回復魔法等、その種類は多種多様だ。使用の際はその魔法に応じた対価を支払う必要があり、魔源と呼ばれる生体エネルギーがそれに該当する。
戦技。これもまた神秘の一つなのだが、魔法とは似ているようで完全に別物だ。発動の際に魔源を消耗せず、代わりに一度使用すると長いインターバルを必要とする。
魔法と戦技。これらは人間だけの特権ではない。魔物の中にもこれらを実戦投入するものはいる。そういった個体はひときわ手ごわく、傭兵や軍人はそれらと相対した際、慎重に立ち回らなければならない。
「もえてる……。あつくないの?」
「うん、僕なら大丈夫。魔法を使った本人だからね。コールオブフレイムは見た目通り、手や武器に炎をまとわせる強化魔法だよ。戦いにも使えるし、焚火を起こすにも便利……、というか僕はそういう使い方の方が多いかも」
コールオブフレイム。強化魔法に分類される一種であり、ウイルの説明通り、拳や刃に炎を付与することで殺傷力を高められる。魔源の消耗は少なく、長期戦や連戦において常に発動させても良いくらいの使い勝手だ。
「わたしも、つかえる?」
「うーん、生まれつき覚えてる人もいるらしいけど、パオラに自覚がないのならまだ無理だと思う。まぁ、でも、体がもっと元気になったらすぐに何かしらは使えるようになると思うよ。魔法なのか戦技なのか、そればっかりはその時になってみないとわからないけどね」
そんな他愛ないやり取りを続けながらも、少女は本日二度目の食事を完食する。
太陽はまだまだ昇りきっておらず、食後休憩も手短に両者は再度出発する。
現在地はマリアーヌ段丘、その西側。ここからは北へ方向転換だ。
ウイルはパオラを腕に抱き、風のように走り出す。
「ぼちぼちアダマラ森林に到着するよー。木が一杯生えてるけど、ゴールの大森林ほどじゃないかな。川があるから、一先ずそこを目指すよ。お昼はそこで食べよう」
草原地帯を北上すると、眼前の風景がガラリと変化する。脈々と連なる岩山が遠方に広がることには変わりないが、進行方向に多数の樹木が現れ始める。
今回の旅路は遠出だ。
イダンリネア王国から始まるそれはマリアーヌ段丘を北西へ進み、アダマラ森林に突入後もそのまま素通り、広大なバース平原を西へ駆け抜ける。行き着く先が軍事拠点のジレット監視哨なのだが、そこは封鎖されており、通常なら立ち入ることすら不可能だ。
ジレット大森林はその先ゆえ、何もしなければ目的地にはたどり着けない。
そのはずだが、問題ない。ウイルは四英雄のギルバルド家から許可証を入手しており、それを提示することで通り抜け可能だ。
このような芸当はこの少年にしか出来ない。人脈が同業者と比較しても突出しているためだ。
理想は、今日中に監視哨へ到着してしまいたい。そこでなら寝床を貸してもらえるだけでなく、簡素ながら食べ物を購入可能だ。
パオラが見た目に反して健康なのだとしても、負担を軽減するためにもベッドで寝かせたい。
もっとも、ウイルは既にスケジュールの変更を検討している。
進行ペースが予想よりも遅れており、その理由は慣れない走り方に起因するのだが、それならそれで構わない。
(本当は夜も走りたいんだけど、七時には寝かせろって言われてるから……。と、なると……、行けてもバース平原の真ん中くらい? 十分か)
焦るにはまだ早い。
バース平原の最西端が監視哨だが、仮に平原の中心付近まで進行出来たとしたら、明日の午前中には問題なく監視哨およびその先へ到着する。予定よりは幾分遅れるが、誤差の範囲内だろう。
「あ、きがいっぱい。はっぱもいっぱい」
「そうだね。あそこからアダマラ森林。魔物が少し手ごわくなるけど、お兄ちゃんと一緒なら大丈夫」
普通なら王国からおおよそ三日かけて歩く距離なのだが、この傭兵なら数時間足らずで事足りる。
緑豊かなそこはアダマラ森林。その名の通り、樹木が群生する広大な土地だ。ここにも軍事拠点が存在しており、そういう意味では最終防衛線と言っても差し支えない。
眼前の風景が野原から木々の集団に移ろい、匂いもより濃厚な土のそれへ一変する。
ここからは不本意ながらも減速だ。先人が踏みしめた自然の道を選ぶのならその必要はないものの、最短ルートを選ぶ以上、多数の樹木が立ちはだかってしまう。それらをスイスイと避けながらの疾走ゆえ、先ほどよりも全速力は出しづらい。
そうであろうとなかろうと、先ずは昼食だ。
目の前に現れた巨大な水流を正面に捉えつつ、ウイルはそっとパオラを降ろす。
「お昼ご飯にしよっか。なーんか、さっき食べたばかりな気もするけど……。それでも一時間以上はたってるしね」
「うん。これなに?」
「川だよ。近寄ってもいいけど、落ちないでね」
その河道は深く、太い。遥か北西から続く水流はそのままイダンリネア王国にまで達しており、水源として王国の民を支えている。
もしもパオラが落ちようものなら、流れに飲まれあっという間に溺れてしまうだろう。もっとも、傭兵が保護者として同行しているのだから、救出は容易い。
「おみずがいっぱい」
「魚もいるよ。今度、二人で釣りでもしよっか。あー、シイダン耕地かケイロー渓谷の方が安全かな? いや、ハクアさんとこでいいか。まさに一石二鳥」
水の流れが少女の瞳を輝かせる。川辺で直立し、見下ろす姿は無邪気な子供そのものだ。ウイルとしては心配で目を離せないが、親代わりゆえ仕方ない。
(パオラはさっきのパンと、後はスープと果物。僕はおにぎりと干し肉で)
この場で調理するわけではないため、食事の準備はあっという間だ。マジックバッグから取り出し、事前に敷いておいたシートの上に並べるだけで済んでしまう。
パオラを招き、彼女にとっては三度目の、ウイルにとっては二度目の食事が始まる。
(エルさんがいてくれれば、川で魚捕まえて、それを焼いてもらったのに……。あー、僕でもそれくらいは出来そうな気がするなぁ。内臓取り出せば済む話だし。さすがに三枚におろすとかは無理だけど。エルさんって本当に器用だったなぁ、料理の時限定だけど……)
白い握り飯を頬張りながら、ウイルはこの場にいない仲間のことを想ってしまう。
焼き魚が食べたいからか。
単純に寂しいのか。
自分のことでありながら理由まではわからず、口の中の味に変化をつけるため、固い干し肉にかぶりつく。
塩っ辛さと濃縮な肉のうま味、そして残っていた米粒が出会ったのだから、美味しくないはずがない。
幸せを噛みしめるウイルだったが、その声が彼を正気に戻す。
「あそこにだれかいる」
パオラが河川の上流方向を指さす。
そこには子供のようなシルエットがポツンと立っており、黒一色のその姿は単色の影が具現化したかのように思えるが遠目からではそう見えてしまっても仕方ない。
「お、目が良いね。あれはゴブリン。人間みたいだけどれっきとした魔物だから、見かけても近づいたらダメだよ」
「まもの……。くろいふくきてる」
「うん、ゴブリンは黒や白のフルプレートアーマー……、あー、金属の鎧で顔を含めて全身を覆ってるんだ。ローブ……、パオラみたいなそういう服を着るのもいるんだけど、そういうゴブリンもやっぱり布を被って頭を隠してて……、恥ずかしがり屋なのかな?」
「そうなんだ」
嘘は言っていないのだが、難しい単語の使用を避けると、どうしてもふざけたような言い回しになってしまう。それでもウイルの説明はある程度伝わっており、少女は納得したようにパンをかじる。
ゴブリン。身長や姿形は人間の子供に近い。それこそ遠方からでは見分けが困難なほどだ。もっとも、王国の外で出会う時点で傭兵が見間違うことはない。
なにより、この魔物は例外なく武装している。
フルフェイスのヘルム。
露出部分が見当たらないほどの重鎧。
真っ黒なそれらをまとっている時点で、人間の子供であるはずがない。その重量は大人でさえ悲鳴をあげるほどなのだから、非力な子供がそれらを着て軽快に歩けるはずがない。
それに加えて剣や斧、機械仕掛けの弓を携帯しているのだから、傭兵は声をかけるよりも先に警戒が必要だ。
(こっちに気づいたのはゴブリンだけっぽいけど、そのまま退散してくれないかな……)
実は、ウイルは食事を始める前からこの個体を含む周囲の敵に気づけていた。
(ジョーカーの範囲内には四体。川の向こうのは当然無視するとして、それでも三体。さすがアダマラ森林、魔物の数が本当に多い。どれも弱いから問題ないけども……。だけど、今日はこの子がいるんだからいつも以上に警戒しないと)
ジョーカー。これはウイル自身が名付けた彼自身の能力だ。魔法でもなければ戦技でもなく、天技と呼ばれる第三の神秘に分類される。
天技。その性質は魔法とも戦技とも似て非なる。同列に扱うことはおおよそ不可能であり、その理由はそれのありようが根本から別種だからだ。
魔法も、そして戦技も、人によって習得出来るものに差異はあるのだが、誰が使おうと同一のものであるのならその効果は同じだ。
例えば、フレイム。攻撃魔法のこれは火球を作り出し、弾丸のように発射することで相手を燃やす。
詠唱者の実力により威力こそ変わってしまうも、相手に火傷を負わせる、もしくは焼き殺すという点においては相違ない。
子供が使おうと。
大人が使おうと。
傭兵が使おうと。
魔物が使おうと。
炎の塊を生成、発射、相手を燃やす。この工程は同一だ。
このように魔法や戦技には普遍性があり、使いこなせるかどうかは別の話だが、誰が使おうと同じ効果をもたらす。
しかし、天技はこの定義に当てはまらない。
その名の通り、言わば天から与えられた特例的な神秘であり、ウイルの場合、視認せずとも周囲の魔物を感知することが可能だ。
覚醒者。天技を習得した者はそう呼ばれるのだが、その人数はとても少ない。傭兵という枠組みにおいては、現状この少年だけが確認されている。
天技は覚醒者ごとに全く異なる能力となっており、そのどれもが一品物だ。
ウイルのこれは魔物用のレーダーであり、傭兵という稼業に身を置くのなら重宝する。残念ながら戦闘向きではないものの、それを嘆いたところで変更など出来ないのだから、大人しく受け入れるしかない。
魔法や戦技は努力することで必ず習得可能な一方、天技だけは運否天賦だ。両親から遺伝するものでもなく、誰がいつ、どのような能力を習得するかは運以外の何者でもない。
そういう意味では恵まれている。そう捉える者も少なくはないのだが、実はその考え方は誤りだ。
天技の習得、すなわち覚醒者にはそれ相応のデメリットがあり、その結果、ウイルは重い代償を背負った。
だからと言って立ち止まりはせず、今もこうして父親探しを手伝えている。
「あ、いなくなった」
「ゴブリンは頭が良いから、一人では敵わないと思って逃げたのかな? 良かった良かった」
パオラの言う通り、黒鎧をまとったゴブリンが北の方角へ姿を消す。ここは森の中ゆえ、木々に姿をくらませば撤退は容易い。
ウイルは大袈裟に喜ぶも、演技でもなんでもなく本心だ。
この地のゴブリン程度に遅れは取らない。そうであろうと、戦闘を回避出来たことはありがたく、二つ目の握り飯を口に運ぶ。
「それってなに?」
「ん? おにぎりのこと? 一口食べてみる?」
「うん」
パオラの主食はパンと果物だ。米や肉の類は食べ慣れておらず、緑色の瞳が少年の右手に注目するのも無理はない。
食べかけゆえ、半分の大きさになったそれをウイルは少女の口元へ運び、その口がもそっとひと噛みする。
「おいしい」
「お米も美味しいよね。日持ちしないから、旅の最中は食べられないのがネックだけども」
おにぎりを噛みしめながら、静かに驚くパオラ。表情こそ変わらないが、口の中は幸せで一杯だ。
ウイルは残りわずかな欠片を手渡し、少女の喜ぶさまに充実感を覚える。
(あ……、エルさんの気持ちがわかった気がする。僕に対してよく、たーんとお食べ、みたいなことを言ってたけど、こんな感じだったのかな……。実力だけでなく、そういうところも追い付けた……、と思いたいな)
自分を導いてくれたその女性。傭兵としても、人間としても頼りになったが、今は隣にいない。魔女と呼ばれる存在に連れ去られてしまったからだ。
エルディアを見つけ出して連れ帰りたい。そのことだけを考え、この三か月間を過ごしてきた。
次は負けないため、血を流しながら多数の魔物を狩った。
成長に頭打ちを感じるも、数奇な出会いがその壁を乗り越えさせてくれた。
ここからは探す段階だ。この大陸はあまりに広いため、一筋縄ではいかないと覚悟している。
焦ったところで彼女が見つかるわけではないのだが、逸る気持ちがそういった感情を生み出してしまう。
それでも今は後回しだ。
最優先は、この少女の望みを叶えること。
ロストン・ソーイング。パオラの父親であり、動機は不明だが育児放棄と虐待を続けてきた異常者。
もっとも、再会は不可能だ。この男が所属するユニティは謎の魔物に壊滅させられた可能性が高く、つまりはどこかで死体となり腐り始めている。
ゆえに、この旅は別れを告げるための儀式だ。パオラがそこまで理解しているかまではわからないが、ウイルは亡骸を見つけるため、少女と共に旅立った。
この世界は残酷だ。
ほとんどの人間は、魔物に抗うことすら出来ない。
殺すか、殺されるか。どちらかを選ばなければならない時に、例え前者を選ぼうとしても、その資格がないのだと実力で思い知らされる。
人間と魔物。相反する両者は、決して分かり合えない。この世界はそのように作られている。
生きるか、死ぬか。
殺すか、殺されるか。
戦うか、逃げるか。
抗うか、受け入れるか。
男か、女か。
選べる時もあれば、そうでない時もある。
新円を描く舞台の上で、人間と魔物は殺し合わなければならない。
生きるために。
満たされるために。
独占するために。
この世界の名はウルフィエナ。人間が人間らしく生きるために用意された、神々の楽園。
舞台は既に用意されている。
そこに立つ少年も準備完了だ。
弱者か。
強者か。
それを決めるのは勝者であり、敗者だ。
ウイルがどちらに当てはまるのか。答え合わせはジレット大森林で済まされる。